存在と無を法政大学の空き教室で、自死した野口や英文科の猪俣らと呼んでいた時の熱狂も、了子と闇の中を疾走していたときも、諭吉を楽しんでいたときも、36年の教壇も、そして今啓林館を辞書総出で愉悦の顔で読みまくっているのも、どれもこれも、自分の言動を、その輪郭から捉えることなく盲動しているだけではないのか。

ほんの2コマ追加しないと言われて、有頂天になって、評価されたのだとうぬぼれているのも、情けないほどの、軽佻浮薄。

ずっとそうだったのだ。軽挙妄動。

アイーダをやるとイウから出て行ったら、音取りは全部自分でやれということで、CDを買い、事務長に教えを請い、それでも、音は取れないから、ハサミとノリで、おんぶの下にカタカナを書いて、70小節くらいまで、ICレコーダーにれた音の流れを、音符を読みながら理解しようとしているのも、この年でやることかという声を押さえ込んで、この年だからやるんじゃないか、と言いくるめて、イタリア語をへんちくりんのカタカナにしている。

この行かれた行動も、説明がつかないまま、自分に言い聞かせて、生きているんだから挑戦だぜ、と肩を怒らせている。

両手の指の動かないのがひどくなれば来年はもう諦めるしかないだろう。

でも共立に行きたいなあ。佐野さん頼むよ。