ビル・ロビンソン さん
ビル・ロビンソン(Bill Robinson)
本名:William A. Robinson
(1939年9月18日生~2014年2月27日、満75歳没)
イギリス・マンチェスター出身の元プロレスラー。
ダブルアーム・スープレックス の創始者。
ウィガンのビリー・ライレー・ジムで キャッチ・レスリング を習得し、
欧州マットを経て、日本やアメリカで活躍した。
ダブルアーム・スープレックス を日本で初公開したことから、「人間風車 」の異名を持つ。
アメリカではバーン・ガニアが主宰していたAWAを主戦場に、
"ブリット" ビリー・ロビンソン("Brit" Billy Robinson)のリングネームで活動。
戴冠は果たせなかったものの、次期AWA世界ヘビー級王者の最有力候補とされていた。
1975年12月、新日本プロレスの『闘魂シリーズ第2弾』に終盤戦特別参加で登場。
来日第1戦となる12月4日の大阪府立体育館では、
国際時代からの因縁の相手であるストロング小林に勝利。
その後も永源遙、山本小鉄、星野勘太郎を下し、
タッグマッチではグレッグ・バレンタインと組んで小林&坂口征二と対戦。
そしてシリーズ最終戦の12月11日、蔵前国技館にてアントニオ猪木のNWFヘビー級王座に挑戦。
3本勝負でそれぞれが1本ずつ取った後、60分時間切れ引き分けとなったこの試合は、
プロレス史に残る不朽の名勝負とされている。
新日本からは長期契約が提示され、以降も参戦が予定されていたが、
報酬額の低減を要求されるなど条件面の不信感から、
新日本参戦はこの一度だけに終わった。
しかし、ロビンソンは猪木の実力を高く評価し、それ以前も以後も含め、
自分が闘った日本人選手の中ではナンバーワンだったとしている。
1976年、ドリー・ファンク・ジュニアの仲介のもと全日本プロレスと契約。
初登場となる7月の『サマー・アクション・シリーズ』において、
前年の猪木戦と同じ蔵前国技館にてジャイアント馬場のPWFヘビー級王座に挑戦したが、
2-1のスコアで敗退している。
Mark Coleman さんが 2016/11/16 に公開
ジャイアント馬場vsビル・ロビンソンPWF戦76'July 蔵前 Giant Baba vs Billy Robinson.
https://youtu.be/RpHiYq1MYG8
以降も全日本の常連外国人選手となるも、
馬場との連戦は組まれず、ジャンボ鶴田のライバルとして活動。
1977年3月5日には鶴田を破りユナイテッド・ナショナル・ヘビー級王座を獲得した。
2004年、『高円寺のレスリング・マスター 人間風車 ビル・ロビンソン自伝』エンターブレイン。
2014年、自宅にて75歳で死去。
当初は3月3日死去と発表されたが、
3月5日付でフェイスブックに開設された「ビル・ロビンソン・メモリアルページ」にて、
ロビンソンの長男のコメントをもとに2月27日に変更された。
ビル・ロビンソンのプロフィール Cagematch.net
ビル・ロビンソンのプロフィール Wrestlingdata.com
ビル・ロビンソンのプロフィール Internet Wrestling Database
Online World of Wrestling
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ビル・ロビンソン(Bill Robinson)
本名:William A. Robinson
(1939年9月18日生~2014年2月27日、満75歳没)
イギリス・マンチェスター出身の元プロレスラー。
ダブルアーム・スープレックス の創始者。
ウィガンのビリー・ライレー・ジムで キャッチ・レスリング を習得し、
欧州マットを経て、日本やアメリカで活躍した。
ダブルアーム・スープレックス を日本で初公開したことから、「人間風車 」の異名を持つ。
アメリカではバーン・ガニアが主宰していたAWAを主戦場に、
"ブリット" ビリー・ロビンソン("Brit" Billy Robinson)のリングネームで活動。
戴冠は果たせなかったものの、次期AWA世界ヘビー級王者の最有力候補とされていた。
1975年12月、新日本プロレスの『闘魂シリーズ第2弾』に終盤戦特別参加で登場。
来日第1戦となる12月4日の大阪府立体育館では、
国際時代からの因縁の相手であるストロング小林に勝利。
その後も永源遙、山本小鉄、星野勘太郎を下し、
タッグマッチではグレッグ・バレンタインと組んで小林&坂口征二と対戦。
そしてシリーズ最終戦の12月11日、蔵前国技館にてアントニオ猪木のNWFヘビー級王座に挑戦。
3本勝負でそれぞれが1本ずつ取った後、60分時間切れ引き分けとなったこの試合は、
プロレス史に残る不朽の名勝負とされている。
新日本からは長期契約が提示され、以降も参戦が予定されていたが、
報酬額の低減を要求されるなど条件面の不信感から、
新日本参戦はこの一度だけに終わった。
しかし、ロビンソンは猪木の実力を高く評価し、それ以前も以後も含め、
自分が闘った日本人選手の中ではナンバーワンだったとしている。
1976年、ドリー・ファンク・ジュニアの仲介のもと全日本プロレスと契約。
初登場となる7月の『サマー・アクション・シリーズ』において、
前年の猪木戦と同じ蔵前国技館にてジャイアント馬場のPWFヘビー級王座に挑戦したが、
2-1のスコアで敗退している。
Mark Coleman さんが 2016/11/16 に公開
ジャイアント馬場vsビル・ロビンソンPWF戦76'July 蔵前 Giant Baba vs Billy Robinson.
https://youtu.be/RpHiYq1MYG8
以降も全日本の常連外国人選手となるも、
馬場との連戦は組まれず、ジャンボ鶴田のライバルとして活動。
1977年3月5日には鶴田を破りユナイテッド・ナショナル・ヘビー級王座を獲得した。
2004年、『高円寺のレスリング・マスター 人間風車 ビル・ロビンソン自伝』エンターブレイン。
!高円寺のレスリング・マスター 人間風車 ビル・ロビンソン自伝

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2014年、自宅にて75歳で死去。
当初は3月3日死去と発表されたが、
3月5日付でフェイスブックに開設された「ビル・ロビンソン・メモリアルページ」にて、
ロビンソンの長男のコメントをもとに2月27日に変更された。
ビル・ロビンソンのプロフィール Cagematch.net
ビル・ロビンソンのプロフィール Wrestlingdata.com
ビル・ロビンソンのプロフィール Internet Wrestling Database
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