ジャンボ鶴田 さん

ジャンボ鶴田(ジャンボつるた)
 本名:鶴田 友美
 リングネーム:
  ジャンボ鶴田
  トミー・ツルタ
  鶴田 友美
 ニックネーム:
  完全無欠のエース
  怪物
  若大将

1951年3月25日生まれ、
2000年5月13日、満49歳没。

山梨県東山梨郡牧丘町(現:山梨市)出身のプロレスラー、スポーツ科学研究者、教育者。

全日本プロレスで活動した 三冠ヘビー級王座 の初代王者であり、
日本人初の第30代 AWA世界ヘビー級王者 である。

山梨県立日川高等学校を経て、
中央大学法学部政治学科卒業。

1972年ミュンヘンオリンピックのレスリングである、
グレコローマンスタイル最重量級日本代表を経て、
その後全日本プロレスへ入門する。

オリンピック出場時の選手名簿には身長193cm、体重110kgと明記されている。

ジャンボ鶴田試練の十番勝負の第7戦目では
1972年ミュンヘン五輪レスリングの男子フリースタイル120kg級銅メダリストの クリス・テイラー に勝利している。

大学在籍時の1972年10月31日、全日本プロレス入団記者会見で
「僕のような大きな体の人間が就職するのには、全日本プロレスが一番適した会社かと思いまして。尊敬する馬場さんの会社を選びました」
と発言したことが「全日本プロレスに就職します」と報道される。

1973年3月24日、アマリロでエル・タピアを相手にプロデビュー。
 デビュー当初は本名の 鶴田友美 をリングネームに用いていた。
 ニックネームは「若大将」。
 ジャイアント馬場の後を継ぐ次世代・全日本プロレスの若き大型エースとしても期待され、
 順調に頭角を現しトップレスラーの1人として活動した。
 座右の銘である 『人生はチャレンジだ チャンスは掴め』 は、
 鶴田のプロレスの師匠であったジャイアント馬場から継承している。

1973年5月20日、ニューメキシコ州アルバカーキで、
ドリー・ファンク・ジュニアのNWA世界ヘビー級王座に挑戦するという大抜擢を受ける。

1973年8月9日、スタン・ハンセンと組み、
当時ザ・ファンクスが保持していたインターナショナル・タッグ王座に挑戦。

凱旋帰国後の1973年10月6日、
後楽園ホールにおけるムース・モロウスキー戦で国内デビューしフォール勝ち。

3日後の10月9日、
蔵前国技館でのザ・ファンクスとのインターナショナル・タッグ王座戦の馬場のパートナーに選ばれる。
 しかしこの抜擢については試合前に
 「彼はまだデビューしてから半年だし、
 150試合のアメリカ修行で一体、どれだけ成長が出来るというのか?
 プロはそんなに甘い世界ではないだろう」
 と、内外含めてメディアからも猛批判が上がったが、
 アメリカで鶴田の成長ぶりを実際に確認していた馬場は
 「まぁまぁ、とにかく彼の試合を観てから判断しましょう」
 と、自信たっぷりに答えている。
  60分3本勝負の1本目では
 テリー・ファンクからジャーマン・スープレックス・ホールドでピンフォールを奪い大器の片鱗を見せ、
 早くも馬場に次ぐ全日本プロレスナンバー2の地位に就いた。

8月31日、蔵前国技館において、力道山以来の日本プロレス界の至宝インターナショナル・ヘビー級王座をブルーザー・ブロディから奪取、第14代王者となる。試合後、ロッカールームで馬場から「よくやったよな、今日からお前がエースだぞ」と祝福され、公式に全日本プロレスのエースを襲名する。

1983年4月、
若手レスラーの登竜門と言われたトーナメント大会ルー・テーズ杯の特別レフェリーとして
再度全日に登場したテーズから、
バックドロップとフライング・ボディシザース・ドロップを今度は本格的なマンツーマン特訓で伝授される。

1983年6月8日、
NWA世界王者 リック・フレアー に挑戦し、
三本勝負を1-0で時間切れ勝ちはするものの、
「三本勝負の場合、二本勝たなければ王座の移動はしない」
というNWAルール規定により、世界奪取はならなかった。

1983年7月31日、AWA世界王者 ニック・ボックウィンクル に挑戦をし、反則勝ちをするが
「ピンフォール勝ち、ノックアウト勝ちもしくはギブアップ勝ちでないと王座は移動しない」
というAWAルール規定により王座移動せず、世界奪取は失敗に終わる。

1983年8月31日、蔵前国技館において、
力道山以来の日本プロレス界の至宝 インターナショナル・ヘビー級王座ブルーザー・ブロディ から奪取、
第14代王者となる。

1984年2月23日、蔵前国技館で、
自らが保持するインターナショナル・ヘビー級王座を懸けてのダブルタイトルマッチとして、
AWA世界王者のニック・ボックウィンクルに再び挑戦。
 インター王座とのダブルタイトルマッチということで、
 インター選手権のルールも適用され、反則やリングアウトなどあらゆる勝敗で王座移動、
 さらにレフリーの失神等でのアクシデントを防ぐため、
 主審にテリー・ファンク、副主審にジョー樋口を起用するという万全の態勢で、
 ニックのダーティーなファイトを防ぎ、
 「バックドロップ・ホールド」によって勝利し、
 当時日本人として初めてAWA世界ヘビー級王座を獲得、
 念願の世界奪取を達成した。
 この一戦は当時の『土曜トップスペシャル』で放送されるほどのビッグマッチであった。
 この時の3カウントを叩いたのは、テリー・ファンクであった。

1988年6月、谷津嘉章 との 五輪コンビ
インターナショナル・タッグ王座とPWF世界タッグ王座を統一、
初代世界タッグ王者に就いた。

1989年4月、シングルタイトルであるインター・PWF・UNの三冠を統一し、初代 三冠ヘビー級王者 となる。

1991年1月19日、ハンセンを破り、三冠ヘビー級王者の第8代目に返り咲く。

しかし
1992年11月、B型肝炎を発症し、長期入院を余儀なくされたことにより第一線を退く形となる。

その後はレスラーとして現役生活を続けながら桐蔭横浜大学・慶應義塾大学、
そして母校の中央大学で講師を務めるなど、
教育者としても活動した。

1999年1月31日、馬場の死去直後に引退及び全日本取締役辞任の記者会見をキャピトル東急ホテルで行う。

1999年2月20日の引退記者会見に続いて、
1999年3月6日に日本武道館で引退セレモニーが行われ、
研究交流プロフェッサー制度によりスポーツ生理学の教授待遇として、
オレゴン州ポートランド州立大学に赴任することを明らかにした。

B型肝炎は肝硬変を経て、肝臓癌へ転化かつ重篤な状態へ進行していた。

鶴田は第三者らの進言もあり肝臓移植を受けることを決断。

2000年4月、滞在中のオーストラリア・ブリスベンで『ジャンボ鶴田基金』を設立し、
移植患者に向けたサポートを行う活動を始めた。
同年春になりフィリピン・マニラでドナー出現の報を聞き、
オーストラリアからフィリピンに渡航。
国立腎臓研究所で手術が行われたが、
肝臓移植手術中に大量出血を起こしてショック症状に陥る事態が発生し、
長らくの治療や16時間にも渡る手術の甲斐なく
2000年5月13日17時(現地時間では16時)、49歳で死去。
 和田京平の著書によると、「鶴田は元々血を流すと止まりにくい体質であった」と記されている。

2000年11月28日(日本時間29日)、米国プロレス殿堂入りを果たした。
 日本人では力道山・ジャイアント馬場・アントニオ猪木に次ぐ4人目の快挙。

2022年5月31日、23回忌追善興行が後楽園ホールで行われ、
新日本プロレス・全日本プロレス・DDTなど10団体とフリーの32選手が熱戦を繰り広げ、
超満員札止めの1588人のファンで埋め尽くされた。

maeda akira さんが 2020/11/05 に公開
ジャンボ鶴田・・・大技集

https://youtu.be/EUqXvPr8Q6A

2021/06/25 『1987年、ジャンボ鶴田をキレさせ怪物にした男 「口から血が出て人相が変わって。『これは、やべえ』と思ってね(笑)」』 Number Web

Profile at OWW

Profile at Cagematch

鶴田友美 日本レスリング協会 選手&大会データベース

ジャンボ鶴田 Olympedia(英語)

ジャンボ鶴田 Number Web




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