リーゼ・マイトナー さん

リーゼ・マイトナー(Lise Meitner)

1878年11月7日生まれ、
1968年10月27日、89歳没。

オーストリア=ハンガリー帝国・ウィーン出身の物理学者。

放射線、核物理学の分野を研究した。

核分裂 の発見などに大きく貢献したほか、
新元素 プロトアクチニウム の発見などの業績がある。

1907年から1938年までドイツのベルリンで研究したが、
ナチスから亡命し、
その後は主にスウェーデンのストックホルムで研究活動を続けた。

1912年、ベルリンにカイザー・ヴィルヘルム研究所が開設され、マイトナーはそこで働くことになった。

1918年、新元素 プロトアクチニウム を発見した。

1938年、マイトナーは オットー・ハーン から
「ウランの原子核に中性子を照射しても核が大きくならず、しかもウランより小さい原子であるバリウムの存在が確認された。何が起きているのか意見を聞きたい」
という手紙を受け取った。
これは今までの理論では起こり得ない結果であったため、
一緒にこの手紙を読んだ甥のフリッシュは、実験のミスではないかと言ったが、
マイトナーは、ハーンがこのような間違いを犯すとは考えにくいと答えた。
そしてフリッシュと共に、この実験から 核分裂 が起きたと解釈して連名で発表し、
fission(核分裂)
と命名した。
なお、これが 核兵器 の開発につながっていくことになるが、
マイトナーは1943年、英国の科学者に核兵器の開発への協力を求められたとき、
「爆弾に関わるつもりはありません」と断っている。

1945年8月6日、広島に原子爆弾が投下されると、マイトナーの元には取材が殺到した。
当時、アメリカやドイツの原爆開発者とは連絡を取ることができなかったため、
マイトナーに注目が集まったのである。
マイトナー自身は実際に投下されるまで原爆についてまったく知らなかったため、
「ハーンも私も、原爆の開発にいささかなりともかかわっていません」
と繰り返した。

1960年、82歳になったマイトナーは、ケンブリッジに住むオットー・フリッシュの家の近くへと引っ越し、
そこで余生を過ごした。

1963年、自らの人生について、
「(若いころは)もしもそれが内容豊かなものであるならば、平坦なものでなくてもかまわない――と(考えていた)。そしてその望みは達せられたのです」
と語った。

1967年ごろからマイトナーの体力や記憶力は衰えがみられてきた。

1968年10月、90歳の誕生日を前に亡くなった。
 遺体はハンプシャーの墓地に埋葬された。
 碑文には、「リーゼ・マイトナー――人間愛を失わなかった物理学者」と記されている。

マイトナーは数度にわたりノーベル賞の候補にあげられた。
一番の業績であった核分裂反応に関しても、
受賞したのは オットー・ハーン 1人(1944年化学賞)で、マイトナーは受賞者から外された。
ニールス・ボーアやオスカー・クラインはマイトナーを1945年から1948年までの物理学賞または化学賞に推薦し続けたが、それは実らなかった。
ハーンはノーベル賞の賞金の一部をマイトナーに渡し、
マイトナーはそれをアインシュタインが運営してた原子物理学者のための支援委員会へ寄付した。
ハーンが死亡したのはマイトナーの死の3か月前のことであった。







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