レフ・ランダウ さん

レフ・ダヴィドヴィッチ・ランダウ
 ロシア語: Ле́в Дави́дович Ланда́у、Lev Davidovich Landau、リェーフ・ダヴィーダヴィチ・ランダーウ)

1908年1月22日生まれ、
1968年4月1日、60歳没。

ロシア帝国アゼルバイジャンのバクー県生まれの理論物理学者。

1930年4月8日~5月3日、コペンハーゲンにある ニールス・ボーア の理論物理研究所に滞在。
 それ以来、ランダウは自身をボーアの弟子とみなし、
 彼の物理学への取り組みはボーアの影響を大きく受けた。

1930年中頃にはケンブリッジで ポール・ディラック と共同研究した。

イギリス滞在中、
当時ケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所にいた ピョートル・カピッツァ に出会った。
 カピッツァとの磁場中の自由電子に関する議論をもとに、
 ランダウ反磁性 に関する理論を纏め上げた。

1930年9月~11月、コペンハーゲンに滞在、
1930年12月~1931年1月、チューリッヒで ヴォルフガング・パウリ と研究した。

チューリッヒからコペンハーゲンに三度戻り、
1931年2月25日~3月19日、滞在して、
レニングラードに戻った。

1932年~1937年、
ハルキウのハルキウ物理工学研究所の理論物理部長を務め、
ハルキウ大学とハルキウ工科大学で講義した。
 ハルキウでは、彼の友人であり元学生だった エフゲニー・リフシッツと ともに、
 理論物理学教程 叢書の執筆を始めた。

エフゲニー・リフシッツ との共著である 『ランダウ=リフシッツの理論物理学教程』 は、
多くの言語に訳され、世界的にも標準的な教科書とされている。

標準的な物理学の教科書 『ランダウ=リフシッツの理論物理学教程』
 1. 力学(第3版)
 2. 場の古典論(第6版, 日本語版書名は場の古典論―電気力学,特殊および一般相対性理論)
 3. 量子力学(第3版, 日本語版書名は量子力学―非相対論的理論)
 4. 量子電気力学(第2版, 日本語版書名は相対論的量子力学)
 5. 統計物理学(第3版)
 6. 流体力学(第3版)
 7. 弾性理論(第4版)
 8. 媒質中の電気力学(第2版, 日本語版書名は電磁気学)
 9. 量子統計物理学
 10. 物理学的運動学 (日本語版書名は物理的運動学)
 1巻から5巻に相当する部分は、
 ランダウの構想のもとに物理学を専門に学ぶのでない人たちも物理学全般の知識を得られるよう企画された『小教程』があり、
 日本語訳は『力学・場の理論』『量子力学』としてちくま学芸文庫から発行されている。







1937年、モスクワの科学アカデミー物理問題研究所の理論物理部長に就任。

1938年4月28日、ランダウは同僚のYuli B.Rumer、Moisey A Koretsと共に逮捕された。
 罪状はスターリニズムとナチズムを比較し、スターリンを批判するビラを作成したことである。
 ランダウは内務人民委員部(NKVD)のルビャンカ刑務所で服役し、
 上司である同研究所長の ピョートル・カピッツァ による懸命な嘆願活動により
 1939年4月29日に釈放された。
 カピッツァはスターリンに書簡を送り、
 個人としてランダウの行動を保証し、
 ランダウが釈放されなかった場合は研究所を辞任すると脅迫した。

1941年、カピツァが発見した ヘリウム4超流動 現象を理論的に説明する論文を発表した。
 この論文は、その後の物性物理学の基礎的概念となる 準粒子 の概念を導入している。
 またこの論文では、ヘリウム4の波動伝播において「 第二音波 モード」の存在を予言しており、
 この「 第二音波 モード」は1944年に実験的に観測された。

1940年代から1950年代前半にかけて、
ランダウはソビエトの原子爆弾および水素爆弾開発プロジェクトに参加を余儀なくされた。
 彼はこのプロジェクトに嫌悪感を示し、最小限の仕事に留めるよう努めた。
 しかしながら皮肉なことに、彼の考案した数値計算手法により水爆の核出力を算出することが可能になり、
 結果的に水素爆弾開発に多大な貢献をした。
 この貢献により、
 1949年と1953年のスターリン賞を受賞し、
 1954年には社会主義労働英雄の称号を授与された。
 1953年のスターリンの死後、ランダウは核開発プロジェクトから脱退した。

1950年代、量子フェルミ液体論を展開し、ヘリウム3の物性など、多くの物性を予言し成果を挙げた。

1962年、絶対零度近くでのヘリウムの理論的研究によってノーベル物理学賞を授与された。

1962年1月7日、ランダウの車が対向車と衝突。
 彼は重傷を負い、2ヶ月間昏睡状態となった。
 奇跡的に一命を取りとめたものの、
 彼の科学的創造性は失われ、
 以降科学の研究に完全に戻ることはなかった。
 この怪我のため、1962年のノーベル賞授賞式に出席することができなかった。

1968年4月1日、6年前の自動車事故で被った怪我の合併症で、
60歳でモスクワにおいて亡くなった。



ありがとうございました。



コメントされる方へ
コメントは承認後に公開されます。
記事と関係ないコメントは承認しないのでご遠慮ください。