輪島大士 さん
輪島 大士(わじま ひろし)
1948年1月11日生まれ、
2018年10月8日、70歳没。
大相撲第54代横綱、元プロレスラー、元タレント。
1970年1月、花籠部屋(師匠は元幕内・大ノ海)に入門し、
1月場所に幕下付出(60枚目格)で初土俵。
1970年5月、新十両。
1971年1月、新入幕。
1972年11月、大関昇進(輪島 博 改め 輪島 大士)。
1973年5月場所を全勝優勝で飾り、場所後に横綱に推挙され、
初土俵からわずか3年半という超スピード出世で横綱へ上りつめ、
史上初の学士・本名横綱が誕生した。
それまで学生出身力士は大成しないジンクスがあったが、それを破った。
1973年7月、横綱昇進。
大相撲の歴史上でも、輪島のみが幕下付出初土俵で横綱に昇進し(現在の番付制度が確立した明治以降、江戸時代を除く)、
学生相撲出身唯一の横綱であり、
横綱昇進後も本名を四股名にしていた横綱となっている。
右手の引きが強いこともあって左の下手投げを得意とし、
左前ミツを引き右からおっつけて寄る相撲も武器であった。
トレードマークの金色の廻しとかけて「黄金の左」と言われ一世を風靡した。
タマミツ887 さんが 2019/09/24 に公開
思い出の土俵 昭和55年秋場所 輪島取組10番
https://youtu.be/etpBUxCslQU
1981年3月、現役引退、年寄・花籠襲名。
1985年12月、不祥事により、相撲界を退く(廃業)。
1986年4月、全日本プロレス入団。
多額の借金問題を抱えて廃業した輪島がプロレス界入りに至ったことは恰好のワイドショーネタであり、
世間の野次馬的な注目を多く集めたが、
相撲の現役を離れて5年、38歳でのプロレス転向は「無謀」という声も多く聞かれた。
輪島が入門したことで、日本相撲協会は全日本に対して1986年11月以降における両国国技館の使用禁止を通告し、
全日本は2004年まで18年間両国国技館における興行ができない状態に陥った。
これにより、プロレスのビッグマッチには日本武道館が馴染みの舞台となった。
1986年8月、馬場とタッグを組んで、アメリカにてデビュー戦を行い、
相撲タックルで勝利。
日本デビュー戦までにアメリカで予行演習的な試合を7戦行った。
その後、オリジナル技の ゴールデン・アームボンバー をフィニッシュとするようになった。
1986年11月、地元七尾で日本国内でのデビュー戦をタイガー・ジェット・シンとのシングルマッチで行い注目を集め、
いきなりの乱闘戦を行い、23.7%もの高視聴率を得る。
これは'80年代後半から現在に至るまで、プロレス中継における最高視聴率。
なお、アームボンバーは輪島引退後の全日マットで田上明が復活させ、
後に田上が肘の内側をあてがう代わりに掌を喉に添える喉輪の形にし、
さらにそのまま倒すのではなく相手を持ち上げてから落とす形に変えた喉輪落としへと発展させ、
これはチョークスラムとも呼ばれ世界的に流行した。
他にジャイアント馬場直伝の抱え式バックドロップも得意技としていた。
また、相撲タックルや突っ張り攻撃等の相撲殺法の他、
ザ・ファンクスの指導により、スピニング・トーホールド等も用いていた。
リック・フレアーのNWA世界ヘビー級王座に挑戦、
スタン・ハンセンとのPWFヘビー級新王者決定戦に出場するなどマッチメイク面では優遇された。
レスラーとしての評価は決して高くなかったが、
同じ大相撲出身の天龍源一郎との絡みは非常に激しいものだった。
自らのバックボーンへのリスペクトを忘れない天龍は、
その世界で最高峰を極めた輪島に対し「強くあってほしい」と願い、
それが輪島への厳しい攻めにつながり、
天龍のシューズの紐の跡が輪島の顔に残るほどの激しさであった。
煮え切らない試合を続けていた輪島もそれに触発され、
天龍が放つ容赦のない顔面への蹴りを真っ向から受けるなど迫力ある対戦となった。
相撲では格下だった天龍(天龍の生涯最高番付は前頭筆頭)が、格上の元横綱を激しく蹴りまくるという展開は、
プロレスを八百長視していた層にも少なからぬ衝撃を与えたと言える。
新日本にUターンしていた前田日明は、この2人の試合を見て
「これはヤバイ。あんな事をやられたら(蹴りと関節技を主体に戦う)自分らの存在意義がなくなってしまう」
と危機感を抱いていたとい。
Jaymie Brackney さんが 2016/11/14 に公開
【最強タッグ】ジャイアント馬場/輪島大士vsブルーザーブロディ/J・スヌーカ 87'Giant Baba/Hiroshi Wajima vs Bruiser Brody/Jimmy
https://youtu.be/xDf4gHu179s
1988年12月27日、プロレス引退。
事前の宣伝や引退試合等も一切無く、ひっそりと身を引いた。
膝や首の怪我等による体力の限界や、
大相撲時代から仲の良かったプロレスラー石川敬士の退団が一因だともされている。
その後、SWSへと参戦した石川とともにマットに上がることは無かった。
プロレス引退後、プロレス界のことを悪く言うことは皆無であった。
プロレス引退後は、大相撲解説などの他タレントとしても活躍。
日本テレビ系「とんねるずの生でダラダラいかせて!!」に準レギュラーで出演し、
いわゆる天然ボケタレントとして活躍する(。
2009年1月18日、大相撲初場所8日目のNHK大相撲中継に
デーモン小暮閣下(現・デーモン閣下)と共に出演し、解説を務めた。
輪島が本場所の土俵を観戦することは
年寄花籠を名乗っていた当時の1985年11月場所以来、
23年2ヶ月ぶりのことであった。
不祥事によって廃業した大相撲関係者がNHKの大相撲中継に出演することはほとんどないため、異例の出演となった。
2013年秋、下咽頭癌への罹患が判明し、
12月、癌の切除手術を受けて成功したがその影響で声を失ってしまったことが明らかにされた。
2018年10月8日、咽頭がん及び肺がんによる衰弱のため、東京都内の自宅で死去。
70歳没。
ANNnewsCH さんが 2018/10/09 に公開
元横綱・輪島大士さん(70)死去 14度の幕内優勝(18/10/09)
https://youtu.be/_LgKW_CTxE8
第五十四代横綱 輪島 大士
輪島 大士 相撲レファレンス
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輪島 大士(わじま ひろし)
1948年1月11日生まれ、
2018年10月8日、70歳没。
大相撲第54代横綱、元プロレスラー、元タレント。
1970年1月、花籠部屋(師匠は元幕内・大ノ海)に入門し、
1月場所に幕下付出(60枚目格)で初土俵。
1970年5月、新十両。
1971年1月、新入幕。
1972年11月、大関昇進(輪島 博 改め 輪島 大士)。
1973年5月場所を全勝優勝で飾り、場所後に横綱に推挙され、
初土俵からわずか3年半という超スピード出世で横綱へ上りつめ、
史上初の学士・本名横綱が誕生した。
それまで学生出身力士は大成しないジンクスがあったが、それを破った。
1973年7月、横綱昇進。
大相撲の歴史上でも、輪島のみが幕下付出初土俵で横綱に昇進し(現在の番付制度が確立した明治以降、江戸時代を除く)、
学生相撲出身唯一の横綱であり、
横綱昇進後も本名を四股名にしていた横綱となっている。
右手の引きが強いこともあって左の下手投げを得意とし、
左前ミツを引き右からおっつけて寄る相撲も武器であった。
トレードマークの金色の廻しとかけて「黄金の左」と言われ一世を風靡した。
思い出の土俵 昭和55年秋場所 輪島取組10番
https://youtu.be/etpBUxCslQU
1981年3月、現役引退、年寄・花籠襲名。
1985年12月、不祥事により、相撲界を退く(廃業)。
1986年4月、全日本プロレス入団。
多額の借金問題を抱えて廃業した輪島がプロレス界入りに至ったことは恰好のワイドショーネタであり、
世間の野次馬的な注目を多く集めたが、
相撲の現役を離れて5年、38歳でのプロレス転向は「無謀」という声も多く聞かれた。
輪島が入門したことで、日本相撲協会は全日本に対して1986年11月以降における両国国技館の使用禁止を通告し、
全日本は2004年まで18年間両国国技館における興行ができない状態に陥った。
これにより、プロレスのビッグマッチには日本武道館が馴染みの舞台となった。
1986年8月、馬場とタッグを組んで、アメリカにてデビュー戦を行い、
相撲タックルで勝利。
日本デビュー戦までにアメリカで予行演習的な試合を7戦行った。
その後、オリジナル技の ゴールデン・アームボンバー をフィニッシュとするようになった。
1986年11月、地元七尾で日本国内でのデビュー戦をタイガー・ジェット・シンとのシングルマッチで行い注目を集め、
いきなりの乱闘戦を行い、23.7%もの高視聴率を得る。
これは'80年代後半から現在に至るまで、プロレス中継における最高視聴率。
なお、アームボンバーは輪島引退後の全日マットで田上明が復活させ、
後に田上が肘の内側をあてがう代わりに掌を喉に添える喉輪の形にし、
さらにそのまま倒すのではなく相手を持ち上げてから落とす形に変えた喉輪落としへと発展させ、
これはチョークスラムとも呼ばれ世界的に流行した。
他にジャイアント馬場直伝の抱え式バックドロップも得意技としていた。
また、相撲タックルや突っ張り攻撃等の相撲殺法の他、
ザ・ファンクスの指導により、スピニング・トーホールド等も用いていた。
リック・フレアーのNWA世界ヘビー級王座に挑戦、
スタン・ハンセンとのPWFヘビー級新王者決定戦に出場するなどマッチメイク面では優遇された。
レスラーとしての評価は決して高くなかったが、
同じ大相撲出身の天龍源一郎との絡みは非常に激しいものだった。
自らのバックボーンへのリスペクトを忘れない天龍は、
その世界で最高峰を極めた輪島に対し「強くあってほしい」と願い、
それが輪島への厳しい攻めにつながり、
天龍のシューズの紐の跡が輪島の顔に残るほどの激しさであった。
煮え切らない試合を続けていた輪島もそれに触発され、
天龍が放つ容赦のない顔面への蹴りを真っ向から受けるなど迫力ある対戦となった。
相撲では格下だった天龍(天龍の生涯最高番付は前頭筆頭)が、格上の元横綱を激しく蹴りまくるという展開は、
プロレスを八百長視していた層にも少なからぬ衝撃を与えたと言える。
新日本にUターンしていた前田日明は、この2人の試合を見て
「これはヤバイ。あんな事をやられたら(蹴りと関節技を主体に戦う)自分らの存在意義がなくなってしまう」
と危機感を抱いていたとい。
Jaymie Brackney さんが 2016/11/14 に公開
【最強タッグ】ジャイアント馬場/輪島大士vsブルーザーブロディ/J・スヌーカ 87'Giant Baba/Hiroshi Wajima vs Bruiser Brody/Jimmy
https://youtu.be/xDf4gHu179s
1988年12月27日、プロレス引退。
事前の宣伝や引退試合等も一切無く、ひっそりと身を引いた。
膝や首の怪我等による体力の限界や、
大相撲時代から仲の良かったプロレスラー石川敬士の退団が一因だともされている。
その後、SWSへと参戦した石川とともにマットに上がることは無かった。
プロレス引退後、プロレス界のことを悪く言うことは皆無であった。
プロレス引退後は、大相撲解説などの他タレントとしても活躍。
日本テレビ系「とんねるずの生でダラダラいかせて!!」に準レギュラーで出演し、
いわゆる天然ボケタレントとして活躍する(。
2009年1月18日、大相撲初場所8日目のNHK大相撲中継に
デーモン小暮閣下(現・デーモン閣下)と共に出演し、解説を務めた。
輪島が本場所の土俵を観戦することは
年寄花籠を名乗っていた当時の1985年11月場所以来、
23年2ヶ月ぶりのことであった。
不祥事によって廃業した大相撲関係者がNHKの大相撲中継に出演することはほとんどないため、異例の出演となった。
2013年秋、下咽頭癌への罹患が判明し、
12月、癌の切除手術を受けて成功したがその影響で声を失ってしまったことが明らかにされた。
2018年10月8日、咽頭がん及び肺がんによる衰弱のため、東京都内の自宅で死去。
70歳没。
ANNnewsCH さんが 2018/10/09 に公開
元横綱・輪島大士さん(70)死去 14度の幕内優勝(18/10/09)
https://youtu.be/_LgKW_CTxE8
第五十四代横綱 輪島 大士
輪島 大士 相撲レファレンス
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