吉田満 さん

吉田 満(よしだ みつる)

1923年1月6日生まれ、
1979年9月17日、満56歳没。

東京市赤坂区青山北町(現・東京都港区北青山)生まれの作家、小説家、日本銀行職員。

大日本帝国海軍における戦時体験をもとにした戦記を残すとともに、
日本銀行職員の要職を歴任する傍ら、
「戦中派」として独自の著作活動や言論活動を続けた。

代表作の 『戦艦大和ノ最期』 は、映画化、長時間テレビドラマ化もされ、
海軍での上官であった 臼淵磐 も吉田の著作を通しても広く知られるようになった。

1942年4月(満19歳)、東京帝国大学法学部(現・東京大学法学部)に入学。

1943年10月(満20歳)、学徒出陣により、
12月から海軍二等水兵として武山海兵団に入団。

1944年2月、海軍兵科第四期予備学生となり、
7月、予備学生隊として海軍電測学校に入校。
同月、帝大法学部を卒業。

1944年12月、海軍電測学校を卒業した吉田は少尉(予備少尉)に任官され、
戦艦大和に副電測士として乗艦を命ぜられ電探室勤務となった。

1945年4月3日(満22歳)、戦艦大和に沖縄への出動命令が下り、
吉田も天一号作戦(坊ノ岬沖海戦)に参加。

連合艦隊はほとんど壊滅し、
護衛の飛行機も一機もない中、
米艦船に埋め尽くされていた沖縄の海に向け出発した戦艦大和は
7日、徳之島西北の沖にいた。

その運命の日、吉田は哨戒直士官を命ぜられ、艦橋にいた。
8回にわたる米軍機約1000機の猛攻撃を受けて、
戦艦大和はあえなく沈没。
吉田は頭部に裂傷を負ったものの、辛うじて死を免れた。
しかしながら、多くの同胞の死を目の当たりにしたそれらの壮絶な体験は生涯消えることのない記憶となった。

その後、吉田はまだ傷が完治していないまま入院していた病院を希望退院して特攻に志願。

1945年7月、高知県高岡郡須崎の回天基地(人間魚雷基地)に赴任。

しかし、命ぜられた任務は特攻ではなく、基地の対艦船用電探設営隊長であった。
米軍の上陸を迎え撃つため、吉田は須崎湾の突端の久通村という部落で陣地の構築を行なった。

1945年8月15日の日本の敗戦後、
父の疎開仲間であった作家・吉川英治宅を訪れ、
戦場での体験を話した吉田は、
吉川の勧めに従い、
帰宅後すぐに「戦艦大和」での体験記録「戦艦大和ノ最期」を執筆。
同作は、自然と文語体となり一日足らずで完成した。

大学ノートに鉛筆で書かれたその原稿は、棒線や矢印などの省略記号が多く混ざったもので、
吉田はこのノートの記述に肉付けをしながら、別の大学ノートにペン書きで記した。
この戦記を少しでも多くの人に読んでもらうため、
吉田は友人ら複数にやはりペン書きでノートに書き写してもらい、
これらの写本が親しい友人たちに回覧された。

1945年2月、吉田は日本銀行に入行し、統計局勤務となった。

1946年、外事局勤務となった吉田は、
4月1日の勤務中に評論家の 小林秀雄 の訪問を受けた。
小林は、吉田の友人が書き写したノート(写本)を手にしながら、
これは立派に一つの文学になっているとして、
いま発刊準備中の季刊誌『創元』の第一号にぜひ掲載したいと申し出た。

吉田は小林に任せることに決め、
小林の指示で検閲を考慮し一部修正などを施し原稿用紙に書き写し、
発行を待っていたが、
GHQの下部組織CCD(民間検閲支隊)の検閲により全文削除処分となりゲラ刷りが没収されてしまうことになった。
小林はCCDに抗議文を出し、
白洲次郎からもGHQとの交渉を依頼するなど奔走したが、
『創元』に掲載されることなく終ってしまった。

吉田は戦記「戦艦大和ノ最期」のゲラ刷りが全文削除処分となっていた同時期、
この戦記の回覧写本の1冊を読んだというカトリック教会・今田健美(こんだたけみ神)父から、
来てほしいとの誘いを受けた。
それまで吉田は宗教に対して無知と反感しかなかったが、
「何か自分に訴える真実」を求めたい気持から、
思い切って訪ねていった。

神父は、「神ということばも、信仰、宗教ということばも、キリストの名も」口にせず、
吉田の得意な話題「美」などについて思うまま話させて、
2人は一夜を語り明かした。
この戦記を、「私の意を迎えるような一言半句をも口に」せず、
手稿(手書き写本の一つ)を両手に抱きながら、
「繰り返し拝見しました。声に出してよみました」と言った今田神父に対して、
吉田は「初めて、自分の苦衷を汲み共に進んでくれる人に逢えたよろこび」を感じた。

それが端緒となり、
「神父を通して、そのかなたのものを実感した神父をして神父たらしめ、神父をつかわしたそのものの息吹」
を感じた吉田は、
その後カトリックに入信し、
1948年3月28日(25歳)、カトリック世田谷教会で洗礼を受け、
同じ3月から日銀内でカトリック研究会を主宰した。

1946年12月初出、「戦艦大和ノ最期」初稿・文語体(『創元』・創刊号)(GHQの検閲により全文削除処分)
1952年8月刊行、『戦艦大和の最期』改定稿版・文語体(創元社)
1974年8月刊行、『戦艦大和ノ最期』決定稿保存版・文語体(北洋社)

戦艦大和ノ最期 (講談社文芸文庫)
吉田 満 (著), 鶴見 俊輔 (解説)
講談社 (1994/8/3)

¥987
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内容紹介
戦争と平和、生と死の意味を問う真摯な思索
「大和轟沈シテ巨体四裂ス 今ナオ埋没スル三千の骸 彼ラ終焉ノ胸中果シテ如何」
世代を超えて読みつがるべき魂の記録、
名作『戦艦大和ノ最期』決定稿を収める。

内容(「BOOK」データベースより)
昭和二十年三月二十九日、
世界最大の不沈戦艦と誇った「大和」は、必敗の作戦へと呉軍港を出港した。
吉田満は前年東大法科を繰り上げ卒業、
海軍少尉、副電測士として「大和」に乗り組んでいた。
「徳之島ノ北西洋上、「大和」轟沈シテ巨体四裂ス今ナオ埋没スル三千の骸 彼ラ終焉ノ胸中果シテ如何」
戦後半世紀、いよいよ光芒を放つ名作の「決定稿」。


1979年9月17日の早暁、肝不全のために死去。
満56歳没。


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