寛仁親王 殿下

寬仁親王(ともひとしんのう)
 全名:寬仁(ともひと)
 身位:親王
 敬称:殿下
 お印:柏

1946年1月5日生まれ、
2012年6月6日、満66歳没。

日本の皇族。

三笠宮崇仁親王 と同妃 百合子 の第一男子(3男2女のうち第2子)。

父:三笠宮崇仁親王
母:崇仁親王妃百合子
妻:親王妃信子(麻生信子)
子女:
 第1女子:彬子女王
 第2女子:瑶子女王
従甥:徳仁(第126代天皇)
従兄:明仁(第125代天皇・上皇)
義兄(妃・信子の兄):麻生太郎(第92代内閣総理大臣)
姉:近衞甯子
弟:
 桂宮宜仁親王
 高円宮憲仁親王
妹:千容子

1966年1月、成年式に伴い大勲位に叙され、菊花大綬章を授けられる。

1966年9月15日に、愛車のプリンス・スカイラインGT-Bを運転して、
渋谷区神宮前の表参道を運転していた寬仁親王は、Uターンしようとしてオートバイをはねた。
オートバイを運転していた住み込み店員が左大腿骨骨折で全治半年の重傷、
後部座席に乗っていた少年も軽症を負った。
人身事故を起こした場合は「自動車の運転を辞める」と母親の三笠宮妃百合子と約束しており、
運転免許証を東京都公安委員会に返納した。

1968年、学習院大学法学部政治学科を卒業(政治学士)。

1968年4月から1970年8月までの2年間半、イギリスのオックスフォード大学モードリン・コレッジに留学。

イギリス滞在中には、エリザベス2世に招かれ、
バッキンガム宮殿でエディンバラ公フィリップ、チャールズ皇太子、アン王女の臨席で対面している。

1970年1月5日、24歳の誕生日に、ロンドンの駐英日本大使公邸において仮装パーティーを開いた。
 「(自身の曽祖父にもあたる)明治天皇に(容姿が)似ているから大元帥服を着ろ」と友人に促され、
 父(帝国陸軍騎兵将校であった)から騎兵将校の軍服を送ってもらい、これを着た。
 日本の一部新聞がこれを批判的に報じた。
 また、駐車違反の罰金の督促を受けても、これを支払わなかったため、皇族である寬仁親王に逮捕状が出された。

学位を取得せずに日本に帰国し、
1970年~1972年、札幌オリンピック組織委員会事務局職員として勤務し、北海道札幌市に居住。

1975年、沖縄国際海洋博覧会世界海洋青少年大会事務局に勤務。

伯父の高松宮宣仁親王の影響を受けて、早くから障害者福祉やスポーツ振興などの公務に積極的に取り組んできた。
 特に障害者が、スポーツへの取り組みを通じて社会参加することを促すため、自らも指導に当たり、
 社会福祉法人「ありのまま舎」(宮城県仙台市にあるキリスト教バプテスト系の筋ジストロフィー障害者福祉施設)の活動に見られるように、
 施設の運営などにも関与し、
 講演や著述を通じて啓発活動に取り組んだ。

イギリス留学を機に、国際親善にも強い関心を持ち、
日英協会名誉総裁を始め、諸外国との交際にも意欲的に取り組んだ。

皇族としては表に出る機会が多く、
東アジア反日武装戦線は、寬仁親王を暗殺者リストに入れて、
行きつけの理髪店、レストラン、画廊等を調べ上げており、身辺警備が強化された。

1972年2月、寬仁親王(当時26歳)麻生信子(当時16歳) に求婚、
当時はまだ高校生で若すぎるということもあり、
8年後の1980年4月18日、皇室会議を経て婚約。

1980年4月18日、三笠宮家の寬仁親王と、麻生信子 の婚約会見が宮内庁で行われた。

TBS NEWS さんが 2021/11/10 に公開
”ヒゲの殿下”三笠宮家の寛仁さま 「7年越しのプロポーズ」 婚約会見・結婚の儀・朝見の儀(1980年)

https://youtu.be/4gRdb-lq-lg

1980年11月7日、成婚。

kata62kima さんが 2010/05/12 にアップロード
寛仁親王殿下憲仁親王殿下御結婚
昭和55年11月7日、寛仁親王殿下と麻生信子さんご結婚。
昭和59年12月6日、憲仁親王殿下と鳥取久子さんご結婚。

http://youtu.be/qVYrb6a9Uew

翌1981年12月20日、長女 彬子女王
1983年10月25日、次女 瑶子女王 が誕生。

皇族としての制約の多さに苛立ち、
1982年、「皇籍離脱発言」をして、世間を騒がせた。
 これについて昭和天皇は記者会見において、
 「国民の皇室に対する期待が、どのようなものなのかを十分に把握して、その期待に沿うように努力するように望む」
 と述べた。

1995年、「競輪・競艇などに名義貸しをして毎年1000万円近くの謝礼を受けていた」ことが国会で問題視された。
 当時の藤森昭一宮内庁長官は「宮家で使う金としてではなく、公共のために寄付するご意向だった」と説明した。

1990年代から、癌、アルコール依存症をはじめとする疾病に悩まされていた。
 1991年1月、食道癌の手術を行った。
 1995年までに舌の付け根・首のリンパ節・喉など6回のガン手術を行い、
 その闘病経験を
 1999年、に闘病記『癌を語る』として出版。



2006年9月16日、洗顔中に転倒し顎を骨折。

2007年10月、ニューヨーク・タイムズのインタビューに答え、
「学習院時代には山手線に乗って通学した」
「朝鮮学校の生徒に因縁をつけられることもあった」
などと青春時代を回想した。
「彼らは学習院の制服を見つけると、いつも襲いかかってきたものでした」
との発言も記録されている。

またアルコール依存症により入退院を繰り返していた。

2010年1月8日、5度目の入院。
 入院してからも入院先の病院から公務に出席しており、
 いわゆる「ふてくされて出てこないのか」発言など行動力と鋭い舌鋒の健在ぶりを見せていた。
 当初入院は1か月の予定であったが、3週間で退院。

2010年10月20日、米誌とインタビューを行えるほどに回復した姿を見せた。
しかし、咽頭癌が見つかったことから、
2008年3月、再び手術を受けた。
 この時は声を残す方向で手術が行われたが、飲み込みが上手くいかず、
2008年4月、肺炎を発症し再入院。
 この際、喉の一部を塞ぐ手術を行ったが、
 それが原因で声帯を震動させる空気の出口が塞がれ、声を失った。
 公務の際には、電気喉頭を首に当てて会話を行っていた。

2010年8月19日、不整脈の治療で入院、
更に
2010年9月の定期検診で新たな咽の癌が発見されたことから
2010年12月14日、内視鏡手術を受けることとなった。

2011年2月、肺炎で入院。

2011年7月8日、中咽頭上皮に見つかった癌の切除手術のため入院。
 1991年以降、癌に関連する手術や治療を受けるのはこれで14回目。

2012年1月、咽喉に腫瘍が見つかり、
財団法人佐々木研究所附属杏雲堂病院(当時)にて
2012年1月10日、腫瘍と周辺のリンパ節の摘出、及び欠損部への腹部からの移植処置を伴う手術を7時間半に亘り受けた。
術後に細胞組織検査を行った結果、寬仁親王の病状が『咽喉癌の再発と見られる』と医師団から発表された。
2012年3月、食事の障害になっていた喉の軟骨の除去手術を受けた。

2012年6月4日、喉から2回出血し、輸血の必要性があった事が明らかになった。
2012年6月5日、宮内庁は腎臓や肺、肝臓の機能が低下状態にあり、意識レベルが低下していると発表。
2012年6月6日15時35分、多臓器不全のため薨去。
66歳没。

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三笠宮家のご活動 宮内庁



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