梅津美治郎 さん

梅津 美治郎(うめづ よしじろう)

1882年1月4日生まれ、
1949年1月8日、満67歳没。

大分県中津市生まれの大日本帝国陸軍軍人(陸軍大将)。

1904年3月18日、少尉任官、歩兵第1連隊付(是永美治郎名義)。

1905年6月30日、中尉に進級(是永美治郎名義)。

1911年11月29日、陸軍大学校卒業(第23期首席(梅津美治郎名義)。

1912年3月25日、大尉に進級し、歩兵第1連隊中隊長となる。

1918年6月1日、少佐に進級。

1922年2月8日、中佐に進級。

1924年12月15日、大佐に進級、歩兵第3連隊長。

1926年12月1日、参謀本部編制動員課長。

1928年8月10日、陸軍省軍務局軍事課長。

1930年8月1日、少将に進級、歩兵第1旅団長。

1931年8月1日、参謀本部総務部長。

1933年11月1日、駐スイス公使館付駐在武官。

1934年3月5日、支那駐屯軍司令官。

1934年8月1日、中将に進級。

1935年8月1日、第2師団長。

1936年3月23日、陸軍次官。

1938年5月30日、第1軍司令官。

1939年9月7日、関東軍司令官兼駐満洲国大使。

1940年8月1日 - 大将に進級。

1942年0月1日、関東軍総司令官。

1944年7月18日、参謀総長に就任。
 サイパン島失陥の責任を取って辞任した東條英機(首相・陸軍大臣も兼務していた)の後任として。

1944年12月、海軍の 小沢治三郎 中将がPX作戦、いわゆる 細菌戦 を立案した。
 これは 榎尾義男 海軍大佐が指揮し、
 細菌を保有するネズミや蚊を人口が密集する米本土西岸にばらまき生物災害を引き起こす作戦内容であった。
 機材として航空機2機を搭載する 伊四〇〇型潜水艦 を使用する計画ではあったが、
 海軍に細菌研究がなかったため、
 陸軍の 石井四郎 軍医中将の協力を要請し陸海の共同計画となり、
 人体実験を含む研究が進められた。
 1945年3月26日、海軍上層部は決行に合意したが、
 陸軍参謀総長であった梅津が
 「アメリカに対する細菌戦は全人類に対する戦争に発展する」
 と反対したため実行はされなかった。
 この件に関して戦後しばらく関係者の沈黙が続いたが、
 のちに榎尾元大佐が新聞で経緯を語った。

1945年9月2日、大本営全権として降伏文書に調印。

極東国際軍事裁判(東京裁判)で終身禁固刑の判決を受け、
1949年1月8日、服役中に直腸癌により病没。
享年68(満67歳没)。
 1978年、靖国神社に合祀。





NHKDocument さんが 2009/03/27 に公開
降伏文書調印式 1/2
http://youtu.be/z1vjWotelxQ


masa777com さんのチャンネル さんが 2011/05/20 に公開
1945年8月日本降伏と連合軍進駐1-2.
ポツダム宣言(ポツダムせんげん、The Potsdam Declaration)は、
ポツダム会談での合意に基づいて、
アメリカ合衆国、中華­民国および英国の首脳が、
1945年(昭和20年)7月26日に大日本帝国(日本)に­対して発した、
第二次世界大戦(大東亜戦争、太平洋戦争)に関し、
「全日本軍の無条件­降伏」等を求めた、全13か条から成る宣言。
ソビエト連邦は後から加わり追認した。
宣­言を発した各国の名をとって、「米英支ソ四国共同宣言」ともいう。
1945年8月14日、
日本政府は宣言の受諾を駐スイス及びスウェーデンの日本公使館­経由で連合国側に通告、
このことは翌8月15日に国民に発表された(玉音放送)。
9月­2日、
東京湾内に停泊する米戦艦ミズーリの甲板で
政府全権の重光葵と大本営(日本軍)­全権の梅津美治郎及び連合各国代表が、
宣言の条項の誠実な履行等を定めた降伏文書(休­戦協定)に調印した。
これにより、宣言ははじめて法的な効果を持つこととなった
http://youtu.be/3cuhxO8HdtQ






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