エヴァルト・フォン・クライスト さん

パウル・ルートヴィヒ・エヴァルト・フォン・クライスト(Paul Ludwig Ewald von Kleist)
 渾名・あだ名:パンツァークライスト

1881年8月8日生まれ、
1954年11月13日あるいは16日、満73歳没。

ドイツ帝国ヘッセン大公国ブラウンフェルス生まれの軍人(上級大将、元帥)。

騎士鉄十字章受章者。

クライスト装甲集団。

騎兵科出身。
 1907年、ハノーファー陸軍乗馬学校入校。
 1910年、中尉に昇進。
 1914年3月、騎兵大尉に昇進。
 1936年、騎兵大将に昇進。
 1938年2月4日、元陸軍総司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュ上級大将などと共に軍を退役。

1939年の第二次世界大戦勃発とともに軍に現役復帰し、
第22自動車化軍団を率いて ポーランド侵攻 に参加。
 彼の軍団はポーランド軍の南方防衛線突破に成功した。

第二次世界大戦で 電撃戦 の中核となる 装甲集団 の司令官などを務めた。

1940年、5個装甲師団からなる「クライスト装甲集団」を率いて、
ドイツ軍の先鋒として 西方電撃戦 に参加。
その戦功により7月14日に 上級大将 に昇進し、 騎士鉄十字章 を受章。
自身でも「あえて言わせてもらえば、フランスで早々勝利できたのは、私の軍団によるところが大きい」と述べる一方、
ダンケルクでのヒトラーによる停止命令については「危険すぎると考えたのだ」として「本当にばかげていた」と語っている。

当初はいわゆる機甲部隊を中心とした電撃戦には否定的であり、
ハインツ・グデーリアンの革新的な戦略思想を理解出来なかった。
しかしフランス侵攻終了後に機甲部隊の有効性を認め、
機甲戦術理論を謙虚に学んでキエフ攻略などの対ソ戦で有効に活用。
「パンツァークライスト」 とあだ名を付けられる程まで機甲戦術理論をマスターした。

1941年4月、ヴィルヘルム・リスト 元帥の第12軍の一部として第1装甲集団を率い、
バルカン半島の戦い に参加。

1941年6月、やはり第1装甲集団を率いて バルバロッサ作戦 に参加・
 ソビエト連邦に侵攻しソ連軍の国境防御線を突破した。
 ブロディの戦い(Battle of Brody )ではソ連軍の戦車2,500両と大規模な戦車戦を繰り広げ、
 ウーマニの戦いキエフの戦い では ハインツ・グデーリアン の第2装甲軍と協力してソ連軍の800両以上の戦車と敵兵65万人を捕虜とした。

1942年1月1日、装甲集団を改称した第1装甲軍の司令官に任命される。

1942年2月、 柏葉付騎士十字章 を受章。

1942年9月、A軍集団司令官に任命。

1943年2月、元帥に列せられた。

しかし 独ソ戦 の作戦遂行についてのヒトラーと度々意見を異にした。

1944年3月29日、ヒトラーとの会談で役職を解任され、 ヴァルター・モーデル と交代させられた。
 この際、ヒトラーはクライストに友好的な話をし、休養を勧めた。
 クライスト自身は「私が別れの挨拶をしたとき、軍人として常に落ち度があったとは思えない、とヒトラー自身が言った」と語っている。

1944年7月20日、 ヒトラー暗殺未遂事件 が発生した際にはゲシュタポに拘束されたが、釈放されている。

敗戦後の1945年、バイエルンでアメリカ軍の捕虜となった。

ニュルンベルク裁判では証人としてマンシュタイン元帥ら同志と共に参謀本部の弁護に力を尽くした。
しかし、クライストはユーゴスラビアに引き渡され、戦争犯罪人として懲役15年の判決を受けた。
1948年、さらにソ連に引き渡され、終身禁固の判決を受ける。

1954年11月、ソ連のウラディミロフカ捕虜収容所で死去した。

ヒトラーについて、異常な点があるとは「思わなかった」とし、
ヒトラーの怒りやすさに関しては
「私自身ヒトラーの倍ぐらい激しいのだ。ヒトラーが私を怒鳴れば、私は倍の怒鳴り声を返した」
として
「言いたいことを言わせてしまえば、ヒトラーは落ち着き、寡黙にさえなった」と語っている。
また軍事指令と政治指令の違いを指摘し、
「軍事命令は従わなければ国家への反逆になる」
と軍人の苦悩を「悲劇」と表現した。

ロンメルやグデーリアン、マンシュタインのような派手さは無いが、
堅実で手堅い采配は高く評価され、
今日でも「ドイツ軍における優れた機甲戦術家」としての評価は高い。

『【古今東西名将列伝】 エヴァルト・フォン・クライスト(Ewald von Kleist)将軍の巻 〈3JKI07〉 Kijidasu!』



ありがとうございました。



コメントされる方へ
コメントは承認後に公開されます。
記事と関係ないコメントは承認しないのでご遠慮ください。