マシュー・ペリー さん

マシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry)
 渾名:蒸気船海軍の父

1794年4月10日生まれ、
1858年3月4日、満63歳没。

アメリカ合衆国ロードアイランド州ニューポート生まれのアメリカ海軍軍人。

江戸時代に艦隊を率いて、鎖港をしていた日本へ来航し、開港への交渉を要求したことで知られる。

兄:オリバー・ハザード・ペリーエリー湖の戦い におけるアメリカ海軍の英雄)

1809年、わずか14歳9か月で士官候補生の辞令を受けアメリカ海軍に入隊、

1812年からの 米英戦争 に2人の兄とともに参加。

1833年、ブルックリン海軍工廠の造船所長となり、
1837年、アメリカ海軍で2隻目の蒸気フリゲート フルトン号を建造し、
同年海軍大佐に昇進。

1840年6月、同海軍工廠の司令官となり、 代将 の地位を得る。

1846年、 米墨戦争 が勃発すると、
後年日本に来航する ミシシッピ号 の艦長兼本国艦隊副司令として参加、
メキシコ湾の ベラクルスへの上陸作戦 を指揮、
後に本国艦隊の司令官に昇進。

1852年11月、東インド艦隊司令長官に就任、
日本開国へ向けて交渉するよう依頼する大統領の親書を手渡すよう指令を与えられた。
同年11月、アメリカ合衆国大統領ミラード・フィルモアの親書を携えてバージニア州ノーフォークを出航した。

マシュー・ペリー は、
1846年7月20日、 浦賀に来航し、通商を要求したアメリカの東インド艦隊司令長官 ジェームズ・ビッドル の失敗を研究し、
7年後、 砲艦外交 によって日本を開国させた。

1853年、黒船来航
 7月8日、マシュー・ペリー率いるアメリカ海軍所属の 東インド艦隊 の艦船( 黒船 )4隻が、江戸湾浦賀湾に来航。
  蒸気外輪フリゲート:サスケハナ、ミシシッピ
  帆装スループ:サラトガ、プリマス
  日本に蒸気船が来航したのはこのときが初めてであったため、
  しばしば黒船=蒸気船というイメージがあるが、
  以前から来航している西洋帆船は総じて 黒船 と呼ばれていた。
 7月14日、
  幕府側が指定した久里浜に護衛を引き連れ上陸、
  戸田氏栄・井戸弘道に開国を促すフィルモア大統領親書、提督の信任状、覚書などを手渡した。
  幕府は将軍 徳川家慶 が病気であって決定できないとして、返答に1年の猶予を要求したため、
  ペリーは返事を聞く為、1年後に再来航すると告げた。
 7月17日、艦隊は江戸を離れ一旦香港へ帰った。

ペリーは香港で将軍徳川家慶の死を知ると、約束の1年をまたず、再び日本を訪れた。
1854年
 2月、計9隻の大艦隊が江戸湾に集結。
  蒸気外輪フリゲート:サスケハナ、ポーハタン、ミシシッピ
  帆装スループ:サラトガ、マセドニアン
  帆装輸送艦:サザンプトン 、レキシントン、バンデーリア、サプライ
 約1ヶ月にわたる協議の末、幕府は返答を出し、アメリカの開国要求を受け入れた。
 3月31日、日米和親条約 (神奈川条約)を締結。
  ペリーは約500名の兵員を以って武蔵国神奈川近くの横浜村(現神奈川県横浜市)に上陸し、
  全12箇条に及ぶ 日米和親条約 (神奈川条約)が締結されて日米合意は正式なものとなり、
  3代将軍徳川家光以来200年以上続いてきた、いわゆる鎖国が解かれた。
 その後、伊豆国下田(現静岡県下田市)の了仙寺へ交渉の場を移し、
 5月25日、和親条約の細則を定めた全13箇条からなる 下田条約 を締結。

幕府へ電信機と模型機関車を献上した。
 4分の1の大きさの蒸気機関車の模型は、円形のレールの上を実際に走らせ、人々を驚かせた。

日本遠征記などの出版に注力した。



また、アルコール使用障害、痛風、リウマチを患っていた。
1858年3月4日、ニューヨークで死去、63歳だった。

ペリー上陸の地である神奈川県横須賀市久里浜の「ペリー公園」には「上陸記念碑」と「ペリー記念館」が建てられている。

久里浜観光協会 さんが 2019/06/24 に公開
【公式】2018久里浜ペリー祭(Long Version)
【概要】
2018久里浜ペリー祭のムービーです。
以下のイベントが含まれています。
・よこすか開国バザール
・水師提督ペリー上陸記念式典
・日米親善ペリーパレード
・久里浜ペリー祭花火大会
【撮影日】
2018/7/14
【久里浜観光協会公式サイト】
https://kurihama.info/

https://youtu.be/KEt1kxrkoSY



ありがとうございました。



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