坂本九 さん

坂本 九(さかもと きゅう)
 本名:大島 九(おおしま ひさし)
 愛称:九ちゃん

1941年12月10日生まれ、
1985年8月12日、満43歳没。

神奈川県川崎市川崎区出身の歌手、俳優、タレント、司会者。

実祖父:坂本金吉(茨城県田伏村(現:かすみがうら市)出身の漁師)
父:坂本寛(ゆたか)(荷役請負業「丸木組」の社長)
妻:柏木由紀子(女優、タレント)
長女:大島花子(歌手、シンガーソングライター)
次女:舞坂ゆき子(女優、歌手、ドッグセラピスト、実業家)
甥(姉の息子):阿部薫(サックス奏者)

川崎市の荷役請負業「丸木組」の社長・坂本寛(ゆたか)と妻・いく(旧姓:大島)の第9子(後妻であった実母にとっては3番目)として誕生。
9番目に生まれて、そろそろ名前のネタが尽きてきたことから、「九」と命名されたという説がある。

戦争中の1943年10月26日に発生した 常磐線土浦駅列車衝突事故 で川に転落し、多数の犠牲者を出した車両に、
疎開のために笠間に向かっていた坂本は母と乗り合わせていた。
ただ、事故の直前に他の車両に移っていたために遭難死を逃れる。

1958年5月、日本大学高等学校在学中にバンド・ボーイを経て、
当時ロカビリーバンドとして活動していた井上ひろしとザ・ドリフターズ(後の桜井輝夫とザ・ドリフターズ、現在の ザ・ドリフターズ )のボーヤとして加入し、
8月、メンバー昇格。
 担当は、セカンドボーカル兼ギター。
8月26日、ロカビリー歌手として第3回日劇ウエスタンカーニバルに初出演し、新人賞を受賞。
12月、ドリフターズではメインボーカルになることが出来ないという理由により、ドリフターズを脱退、
ダニー飯田とパラダイス・キング に移籍。
「8時だョ!全員集合」の第1回放送にゲスト出演。

1959年6月、「題名のない唄だけど」でデビューしたが、ヒットしなかった。

1960年7月、東芝音楽出版(東芝レコード)に移籍。

同年8月に、移籍後第1弾シングルとして発売した「悲しき六十才」が10万枚を売り上げ、初ヒットとなった。

1961年10月15日リリースの 「上を向いて歩こう」 は日本国外でも大ヒットし、
作詞の永六輔、作曲の中村八大と合わせて六八九トリオと呼ばれた。
中でも1963年には、SUKIYAKIと題してアメリカでもっとも権威のあるヒットチャート誌『ビルボード』の "Billboard Hot 100" で、3週連続1位を獲得、
キャッシュボックス(Cash Box)誌でも4週連続1位を獲得。
"Billboard Hot 100" で1位を獲得した日本出身者は2020年9月現在、坂本だけである。
この曲は後に英語歌詞が付いたが、1位を獲得したのは坂本の歌う日本語版であり、その点でもこれまで唯一の例である。

「上を向いて歩こう」「見上げてごらん夜の星を」「明日があるさ」 など数多くのヒット曲を出し、
全世界におけるレコードの売上は1500万枚以上に達した。

また、映画や舞台の俳優、テレビ番組の司会など活動は多岐に渡り活動していたが、
1985年8月12日に発生した 日本航空123便墜落事故 により帰らぬ人となった。

戦争中の1943年10月26日に発生した 常磐線土浦駅列車衝突事故 で川に転落し、多数の犠牲者を出した車両に、
疎開のために笠間に向かっていた坂本は母と乗り合わせていた。
ただ、事故の直前に他の車両に移っていたために遭難死を逃れる。
成長して周囲の人々にこの一件を聞かされて知り、
笠間稲荷神社 の神様が自分を救ってくれた」として、終生信仰していたという。
後には、この笠間稲荷神社で結婚式を挙げる。
そして、日航機事故で命を落とした時にも、笠間稲荷のペンダントが遺体の身元を特定する決め手となった。


さんが 2016/08/21 に公開
坂本九 上を向いて歩こう  ピアノ中村八大 sukiyaki live

https://youtu.be/N4hh28_hdD8

坂本九 - トピック さんが作成した再生リスト
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坂本九 NHK人物録 NHKアーカイブス

坂本九音楽事務所 公式サイト



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