2月にニューヨークでプレビュー公演を観たミュージカルPARADEについて!
このブログでは観劇後の興奮そのままに書いていたので、二ヶ月経って改めて考えたこと感じたことを書きます!

※ネタバレ有りにはなりますがご了承ください。
 
プレビュー公演初日に劇場外ネオナチの団体による妨害が起きたこの公演。
私は正直、
今の時代にネオナチ…?
そんなのまだいるの?
となりましたが。




カンパニー側はこの事態を受けて、この作品をこの時代でも上演するという意味を改めて証明したと言う反応でした。


 
さて私が観劇したのはプレビュー3日目。

公演前に演出家のマイケルアーデンさんとニューヨーク市長のエリックアダムスさんが挨拶されました。
(調べたらニュースになってた)


Playbillの記事↓

まず、このネオナチの騒動に驚き、NYでもここまでわかりやすい差別はあるのかとショックだった私はその時はただただこのスピーチを聞いて、感動していました。

今冷静になって改めてこのスピーチを聞くと、このような作品を上演し続ける意味を改めて感じます。
 
 
 
 
 
 

さてさて、本題に戻ります。

ただこの作品、見方によっては全然捉え方が変わる作品だと思うのですが、とりあえず私の視点でお話ししますね!
 
まずざーっくりあらすじを説明すると、

[一幕]アメリカ南部、ジョージア州アトランタで13歳の少女の強姦殺人事件が起き、容疑者として逮捕されたのは少女が働く工場の工場長のユダヤ人のレオフランク。無実のフランクだったが、裁判では虚偽の供述やメディアの扇動によって死刑判決が下されます。
 

[二幕]夫の有罪を晴らすために戦う妻ルシールは市長を説得し、供述の訂正などをはたし、減刑されたものの、群衆の差別感情を元にしたレオへの憎悪は暴走し、レオは群衆によって処刑されてしまいます。
 
 
いろいろなところに触れたいのですが、
まずは南北戦争。

 
アメリカは同じ国の中でも各州・各地域によって意識や価値観は全く違う合衆国。

だからこそ、自分の地元に誇りがあるし、自分が所属するコミュニティを大切にする意識が強く感じられます。
さらに南北戦争では二分化され、顕著に。
それぞれの正義を掲げて戦っているからこそ、自分たちの信念は疑わないし、敵は徹底的に嫌い憎んでいます。
この作品では根底からある帰属意識と南北戦争による団結を強く感じました。

工場長で北部出身のユダヤ人のレオは格好の標的で処刑にまで繋がったのか。と。
 
 
 
 
 
まぁこの作品は脚本家こそアトランタ出身ですが、初演の演出家ハロルドプリンス、作詞作曲のジェイソンロバートブラウンもニューヨーク育ちのユダヤ人だからか、このレオに向けられる南部の人々の敵意により強い恐怖と不快感がより強く感じるのかなと思いました。

ただマイケルアーデンの演出は色んな視点で観やすいように作られていたので、白人、黒人、ユダヤ人それぞれの視点を考えながら見ることができました。
(もしかしたらそれは自分がアジア人だからできたのかも…?)
 
 

ここから各キャラクターについて触れていこうかなと思います。

 
まずはルシールとレオ。

序盤は同じユダヤ人でも南部出身のルシールと北部出身レオではすれ違いが感じられますが、レオの運命に翻弄されればされるほど2人の絆や愛が溢れてくるストーリーが心を打つのはもちろんですが。
2人の演技力をもってこそ観客が2人の運命に集中できるといった構造だったので、ただただ2人の技量に感服していました。
 
 
さらにフォーカスを置きたいのが、州検事。

いやー、憎らしかった!

州検事は群衆に自身の思惑を匂わさず、言葉巧みに人々の心理をついて、レオを追い込んでいきます。
あくまで誇り高いジョージアの人々を北部の悍ましいレオから守るためというスタンスなのがむしろ気持ちがいいくらい憎たらしく、ここで心が動かされてしまう群衆の気持ちが汲み取れるので同時に集団心理の怖さを体感。

そこの正義感と気持ち悪さを演技と歌で表現してしまう役者、計算された脚本と楽曲。

すっごく気持ち悪いし、悶々としてしまうけど、同時に普段あまり感じられない感情が芽生えるので楽しい、気持ちいいという矛盾した気持ちになります。
(この矛盾と葛藤もまた一興でしたが)
 
 
それに対して、気持ち良いほど卑しさがスパイスになっていた記者。

この時代、この社会で、決して公平とは言えない記事で群衆を扇動していくのは、まるで娯楽。この娯楽性が楽曲にも表れてるし、丁寧に描かれているのが、現代の人が見る上で大事なところだと思います。
 
 
そして、二幕でルシールに協力する知事は重要な役どころなのに印象が薄かったです。

一幕であまりにも白人キャラクター達に気持ち悪さを覚えたのと、裁判を傍観していた姿が印象に残りすぎて、どこか偽善感を感じてしまった。

実話をベースにしてるからこそ、そこがリアルと捉えるべきかもしれませんが、演じる人によってそこは変わりそうだし、難しい役どころですね。

個人的には変に正義感を感じると逆に違和感が残るので、このキャラクターの感じは好きでした。
 
 
最後に黒人の清掃員、ジム。

彼の役こそ、人間味が溢れていているし、魅力的な役どころ。
ユダヤ人への差別がメインで描かれていますが、黒人への差別もしっかり描かれ考えさせられるところが、人種のるつぼであり様々な思惑が飛び交うアメリカらしいなぁと感じました。
 
彼が虚偽の証言をするというのもキーポイントで。

普段差別している白人も、忌み嫌うレオを追いやるためなら、身分が低い黒人の彼の意見もすぐ信じて支持するという構図。(本当に綿密!
)
最後に彼だけは証言を撤回しないというところも彼の思惑が透けて見えて、面白いです。
 
 
 
そしてこの作品。

とにかくジェイソンロバートブラウンの楽曲が本当に秀逸。全曲思わず溜息が出るほど素敵。

様々なジャンルを使い分けているだけではなくて、そこにミュージカルらしく観客の感情を奮わせるメロディを作れるのは本当に天才。

さらにジェイソンロバートブラウンの楽曲とベンプラットの相性がこんなにいいとは。
ただ相性がいいのはベンプラットだけじゃなくて、全曲。それがすごい。
それぞれの技術や武器が完璧に合致したという印象でした。
演出のマイケルアーデン。

本当に劇場という空間の使い方が天才的に上手い。

舞台上だけでなく、ボックス席なども上手ーく使ってました。本当に油断ができない笑

本作はストーリーが非常にドラマチックですが、シンプルな舞台セットで構成されているからこそ役者や楽曲に集中させてくれる効果が強いなと思いました。

つまり引き算がうまい。
 


そして話題にもなっている幕間。

一幕で死刑を言い渡されたレオが舞台上で1人でずっと収監されてます。

記念だから写真撮っちゃうお客さん。(私も)

ただ、その構図がレオの冤罪が娯楽になってしまった様を再現してるみたいで。
ものすごい皮肉。

 
このシーンに関して、ベンプラット本人がオープニングナイトに語っていたので気になる方はぜひ。↓
 

最後に。

どうしても触れたかったのは、アメリカの陪審員制度について。
(ここからは法学部生らしさ丸出しで行くのでご容赦ください。)
陪審員役がわかりやすいとかそう言うことじゃなくて。注目したいのはレオの裁判の背景に見え隠れするアメリカの法制度と国民の意識です。
 
アメリカの法制度は自分たちで確立し、判例を重ねて作ってきたと言う自信と誇りがあります。

そして、裁判による陪審員制度こそが法を作り、主権を持つ国民の意見を反映した賜物です。


 
だからこそアメリカ人はこの陪審員制度をめんどくさいと感じながらも同時に自分達に絶対に必要な権利と思っています。

(アメリカでは日本の裁判員制度とはレベルの違う頻度で陪審員に選ばれるのでより身近な存在というのも一つあります)
そして冒頭に挙げた帰属意識の影響とメディアの扇動、州検事のパフォーマンスの結果が陪審員達のレオへの嫌悪感を駆り立て、彼らの意思表示が裁判の結果に結びつきました。
 

長々と自分で考えたことを書いてしまいましたが。
大学3年生の段階で見て、感じたことを書いたまでで。
きっと10年後に全く同じ舞台を見ても意見が変わるかもしれないし、気になるところが変わるかもしれない。
はたまた今考えてることが馬鹿馬鹿しいと感じるかもしれない。
それでも今の私が感じた感情。受け取ったもの。をここに記録したいと思って書いてみました。
もし1人でも面白い!みてみたい!と言う方がいらっしゃったら嬉しいです。
ありがとうございました😊