山門から背後に見える二上山も、初夏の色になってきました。

 

 

本堂と弥勒堂の甍の間の、二上山は遠く藤原宮跡からの山容とは違って、石光寺の借景にぴったりで、素敵な山です。

 

  

染の井の傍に糸を持って楚々と立つ、中将姫を飾っているのは、この日は優しいピンクの石楠花の花でした。

姫の優しさと青葉と石楠花が、薄幸の育ちからやっと安らぎの地に、戻れた安堵感が漂っているようです。

 

  

中将姫伝説は、橋本市恋野の里山にあります。

あじさいの里の手前に中将の森があります。

中将姫は奈良時代の権力者のひとり、右大臣藤原豊成の娘として生まれたが、5歳の時母を亡くした。豊成は後妻に照夜と言う女性を迎えたが、 中将姫は成長するにつれ容姿端麗、英知にも富み何事にも優れた女性になった。継母の照夜はこうした中将姫に嫉妬し、憎むようになった。その嫉妬心がますます強まり命をも狙われそうになり、姫は恋野の雲雀(ひばり)山に逃れ、仏に仕えて住むようになったという。
 だが、奈良の都や亡き母を思う心は募るばかりで「母恋し 恋しの野辺や…」と中将姫が詠んだ歌から恋野の地名が生まれた。中将姫は後に奈良。
http://wave.pref.wakayama.lg.jp/bunka-archive/minwa/16.html(和歌山・中将姫伝説)

 

 

もう一つ中将姫伝説の尼寺が宇陀市菟田野区の日張山青蓮寺にあります。

そこでは平成4年に尼寺巡拝の時、お話を聴きました。 

 

伝説によれば中将姫は横佩の右大臣藤原豊成の先妻の息女ですが、760年(天平宝宇4年)継母の讒言によって、14歳のとき奈良町の屋敷から、遠く離れた菟田野の日張山に配流され、殺される運命にありましたが、武士嘉藤太夫妻の情けで命を助けられ、念佛三昧の生活を送りました。その約2年後、藤原豊成が狩猟のため日張山に来た際、偶然再会し助けられ、奈良町の屋敷に連れ戻されましたが、念佛の道捨てがたく、當麻寺で剃髪し法如尼と称せられました。當麻寺で當麻曼荼羅を感得して後、19歳のとき日張山へ登り一宇のお堂を建て、自らの影像と嘉藤太夫妻の像を刻み安置して、日張山青蓮寺と名付けました。

 

日張山で中将姫が詠んだ和歌

なかなかに 山の奥こそ すみよけれ 草木は人の さがを言わねば(御詠歌) 

 

中将姫について調べていますと、ほかの土地にも同じような伝説が語り継がれています。

 

 

いずれの伝説でも、継母にそねまれて、殺害されようとしたのを、それを助ける人がいて、かくまう人がいて、

自分の不幸よりも、仏への帰依が、姫を護り当麻寺への道が開かれたように思います。

 

 

聖武天皇の時中将姫が、仏の言われた通り、この寺の井戸で蓮糸を洗い清め傍らの桜の木に掛けてほした所、5色の糸に染まりました。

その井戸の傍の桜のことを「糸掛け桜」といいその井戸を「染の井」と言います。石光寺のことを「染寺」ともいいます。

 

 

五色に染まった蓮糸を、当麻寺に持って帰って「当麻曼荼羅」を織り上げました。 

 

  

 

 

信心深く優しい中将姫と語り合うように境内の花の中に、仏様がいらっしゃるような気がします。