曽我川と葛城川に挟まれたこの付近一帯は、万葉の昔には「百済野」と呼ばれたようだ。『日本書紀』には応神天皇7年9月に、高麗人・百済人・任那人・新羅人、共に来朝せり、と記す。おそらくその時渡来した百済人たちがこの地に住み着いたため、百済野の呼ばれるようになったのだろう。 

三重の塔に惹かれて辿り着いたところは、「百済寺公園」の石標があり、子供の可愛い遊具のある芝生の広い遊び場だった。

駐車場も完備してあり、気持ちよくあたりを散策できた。

 

  
百済野の 萩の古枝に 春待つと 居りし鶯 鳴きにけむか (山部赤人 巻8-1431

境内の梵字池の傍に、万葉集の山部赤人の歌碑がありその辺りには、まだ花の咲いていない萩の葉の重なりが多くみられる。

塔の一階は縁のない高欄をめぐらし、中央間板に唐戸、脇間に連子窓がある。

 

初層の屋根を見上げると、二軒繁垂木を二手先組物で支えている。屋根には本瓦が葺かれ、四方の軒先には風鐸が吊されている。二層と三層の屋根も初層と同じ構造だが、部材の塗りが所々に見られるが、創建当時は綺麗な塗りがこの百済野に、際立って綺麗に見られたであろう。

 

百済寺の三重の塔は、このようにすぐ傍から見上げることができたので、他では見られない細かい部分も分かった。

しかし本堂はどこにあるのかと境内を歩いた。

 

大職冠と呼ばれる本堂

百済寺は、高野山真言宗の寺だが、山号はない。寺の創建時期や経緯も明らかでない。

寺が荒廃してきた弘仁年間、空海がこの地に留まり、三重の塔を建立し、仏像を安置して梵字池を掘ったと伝えられている。

寺は、三重塔と大職冠と呼ばれる本堂を残すだけで、隣接する春日若宮神社によって管理されている。(百済寺の前の郵便局で頂いたパンフレットによって、これらのことを知ることができた。)

江戸時代には談山神社の領地となり、百済寺はその末寺であったためか、本堂は談山神社の旧本殿を移築したもので、大職冠と呼ばれている。

 

大職冠と呼ばれる本堂の軒下部分

 

春日若宮神社の扁額を掲げた石の鳥居をくぐると、右手に古びた三重塔が聳えている。

 

 

境内の端に摂社がいくつも並び、百済寺の三重塔を守っているようにも見える。