先日

同級生数人で恩師に会いに行きました。

今年93歳になられるのにとてもお元気。

柔らかい口調とユーモアは昔と変わらず、

でも、学生時代は聞けなかったような

色んなお話を伺うことが出来ました。



お部屋に入ると、

大きな文字で印刷された新約聖書を

広げておいででした。

小さな文字だと追うだけで大変だったけれど、

大きい文字で読むと新しい発見があるそうです。

80年近く読み込まれてきて、

今なお、気づきがある。

真理を追求し続ける姿勢に頭が下がります。



杖をついていらっしゃったのですが、

お別れしてから、

体調を崩されて一時は車椅子だったことを

知りました。

リハビリにより杖で歩けるようになった今は、

「杖もなしで歩けるように」

と笑顔で宣言。

かっこいいです。



男女が一緒に歩くこともままならなかった時代、

「教会の中は自由でしたよ。」

なんてお話で和ませてもくれました。



海軍に入隊したものの

すでにほとんどの軍艦が沈められていたため、

隅田川や荒川で

12人乗りのボートを漕ぐ訓練をしていたこと。

そして10月に南方かどこかに送られることが

決まっていたが、終戦となったこと。

玉音放送があると聞いたときは、

一億総玉砕の命が下るのかと思われたそうです。



「8月15日の玉音放送、

    あれもこんな暑い日だった…」

「暑い日には思い出す。

    雲ひとつない青空で…」

と繰り返され、

玉音放送の冒頭のお言葉も繰り返し

諳んじておいででした。



東京から30時間ほどかけて故郷に戻るときは、

貨車に乗り、

原爆投下から2週間経った広島を通りました。

「被爆地は砂漠みたいだった」。



先生はさらっと、

「広島駅から己斐駅(現在の西広島駅)まで

歩いた」

と仰いましたが、

駅から駅までほとんどが全焼地域。

しかも直線で結ぶと、

爆心地を通ることになります。

爆心地から半径1.5〜2kmほど離れたところに

弧を描くように敷かれていた線路沿いに

歩いたのかもしれませんが、

その線路も一部が全焼地域に入っていました。



思えば母校では、

広島で被爆者の方にお話を伺う修学旅行など、

貴重な学びの場を与えてもらっていました。

今回も貴重なお話をたくさんしてくださいました。



「今の人たちは戦争を知らないでしょ。

政府が戦争をやるって決めたら、

そのままやりそうで、怖いですね。」



先生、

深い愛情と気づきの機会をありがとうございます。

またみんなで姦しく、お話伺いに参りますね。



(学徒出陣と認識違いしていた箇所は訂正しました。2018.08.24)