KOこ Eえ DOどぉ ~わらべ唄のナゾに迫るッ !!~ | 平成の仙臺四郎のブログ

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ダンスなんたらが迷惑だというのに 毎回来る  なんで嫌だ!というのに平気でするのか気が知れずに かなり閉口して更新を休んだが…

前回の「川越氷川神社」の話題から…“神社繋がり” で…
今回は わらべ唄♪「通りゃんせ」のナゾに迫ってみた
「通りゃんせ」発祥地については諸説あるものの…一番有力視されているのが…川越市にある「三芳野神社」━━

神社の小冊子などによると…創建はかなり古く807 (大同2)年ともいわれ  平安初期の「伊勢物語」にも…“入間の郡 三芳野の里” として登場するほど古く 川越の旧地名の由来にもなっているとか

室町時代1457 (長禄元) 年に太田 道灌が「川越城」を築城した時に 鎮守としたことに始まるようだ

ご祭神は…素盃鳴尊と奇稲田姫命で…近くの「喜多院」や「仙波東照宮」と併せて江戸幕府直営として庇護を受けていたとか

1639 (寛永16) 年に「川越城」の拡張整備で 「三芳野神社」は城内に取り込まれ 庶民は気軽に参拝できなくなってしまったが…
遠くからでも“お城の天神さま” として崇拝していた

遠目からでも参拝する信仰心の厚さに城主は…
一年に一度の神社の例大祭と七五三のお祝いの時だけは入城し参拝を許したそう

では…せっかくなので唄の歌詞になるべく沿いながら歩いてみた (当時と変わってしまったところもあるが…)

まずは…唯一庶民に入城が許されたのは南大手門とか
今は小学校の敷地になっていて入れない

ここから昔は城内だった

「川越高校」があり 「富士見櫓」を左に見ながら進むと…かつては「天神門」があったという 今は人家
すぐに「三芳野神社」参道になる

“この子の7つのお祝いに…”

江戸時代頃には疫病が流行り 子どもは短命が多く 7歳まで育つのはおめでたいという風潮があり これまで成長したお礼と今後の健やかな成長を願った

江戸幕府安定の中でも…各藩が一番恐れていたのは…“密偵”

入城する時は簡単なチェックだけだったが…帰りには 機密文書などを持ち出していないか 持ち物をすべて検査されたという
警備も厳しくするために参道は細かったとか