- 前ページ
- 次ページ
ドアを開けてみたら予想に反してまぶしい光が射しこんできました。
ながくながく続いた梅雨が明けようとしていることに気づき、
まだまだ塞ぎ込んでいるつもりだった自分に焦燥感を覚えました。
「あぁ、いい子ちゃんでいるのはもう止めよかな。」
ふとそんな風な考えが頭に浮かびました。
いつからか分からんけど、
気づいたら自分を隠している自分がいました。
無意味に周囲と自分を比べまくっている自分に気づきました。
そういえばケンカとか最近してないな、そんな風に思いました。
軋轢を生むことを悪しと思うようになりました。
相手の言っていることに正面から異を唱えたり、
感情を表に出して本気で腹を立てることがなくなりました。
そしてそんな自分を見て大人になったなとかいい気になってました。
好きとか嫌いとか素直に言えなくなってる自分がいました。
自分の道を歩んでいるつもりだったのに、
ほんとは周りの目とか気にしまくっていました。
自分の意見とか長い間どっか行っちゃってることにも気づきました。
そんな自分に気づいて、最高にかっこ悪いなとか思いました。
別に腹立ったらケンカしていいんじゃね?
好きなもんは好きと、
嫌いなもんは嫌いと、
そんな風に声を大にして叫んでいいんじゃね?
「このままじゃつまんないオトナになっちゃう。」
あぁ、
でもいま気づいてよかった。。。
今日、おもったこと。
知っていたけど今日再確認。
おれは意見のコンセンサスが苦手だ。
自分が納得できないものはとことん受け入れることができない。
理屈で納得させてくれないと前へ進む気になれない。
イイ言い方をすれば妥協しない。
ワルイ言い方をすればこだわり過ぎ。
たぶん、はたから見てる分には後者の要素が色濃く出てると思う。
自分でもどっちかっていうと短所に入るものだと思ってる。
今日は真っ向からぶつかった。
1対5。
ここまでくっきりマイノリティになるのも久しぶりだが。
でも結論から言うと、今日のバトルはとても意味のあるものだった。
どちらの主張も正しい(おそらく)。
そんな主張がぶつかり合い切磋琢磨する議論を経て、
意見が研ぎ澄まされていくと思うから。
そのためにはマイノリティであろうが何だろうが
自分の正しいと思ったことを誠心誠意をもって相手に伝えること。
今日はそれを貫き通すことができたから
結果的に、みんなにおれの主張が伝わえることができた。
同時に、みんながおれに主張したいことも伝わってきた。
これってとっても素晴らしいことだと思った。
正反対のものがぶつかり合って新しいものが生まれる。
そんな繰り返しがいつか大きな革新に変わるんだと思う。
とてもいいことだけど最近完全に活字中毒になってしまった。
きっかけは3月。スペインに1ヶ月ほど滞在していて、
その間の新聞をずっと取り置きしてた。
で、帰ってからたまった分をノンストップで読み続けた。
特にそのころライブドアVSフジテレビが最高潮のときで、
経営学部のおれとしては読む部分が山のようにあった。
しばらく朝から晩まで新聞を読み続けた。
その後、6月の中旬までは資格試験の勉強のために
本を読むことはほとんどなかった。
でも、その試験が終わった瞬間、どこかに姿を隠していた
「活字」への渇望が突然その封印を解いた。
今では文字を読んでいないと気持ち悪いくらい。
そして最近だんだん本を読むコツが分かってきた。
読むスピードがあがる。
→自然読む冊数も増える。
→さらに読むのが楽しくなる。
昨日は生まれて初めて1日に3冊読んでしまった。
たくさん読むようになって1つ分かったことがある。
よく「量より質」という言葉を耳にする。
俺の読書は上の傾向からも分かるように、
「量」のほうに傾きつつある。
でも数をこなしているうちに少しずつ、
自分の好みや今読むべきものが見えてきた。
最初は本屋へ行っても
どの本を選べばいいのか見当もつかなかったのに。
なにが言いたいのかというと…
「質」をもとめるためには、前提条件として「量」も必要なのではないか。
ということ。
つまり「量より質」の前の段階には、「量から質」がひそんでいる。
最初から「質」を求めてたら、
小さな世界で偏ったものでしか判断できなくなるんじゃないかと、
最近本気で考えるようになった。
やっぱりいろんな世界を見てまわるのは何より大切だ。
今日はちょっぴり京都の街を歩く機会があった。
のんびりと古い街並みを眺めながら歩いていると、
心が洗われるようだった。
思えば、俺は高校が京都だったにもかかわらず、
「古都」としての京都にあまり触れてこなかった。
せっかく奈良に生まれ京都に育ったんだから、
もっと古きよき時代の心を感じながら生きていこうと
思わされた一日でした。