前回よりつづき・・・
・・・以下、Wikipediaより抜粋
1975年、三波春夫名義で『おまんた囃子』の作詞作曲を手掛けて発表し50万枚のヒット。
さらに浪曲師時代の経験を生かし、歌と浪曲を合体させた長編歌謡浪曲を創り上げ三波歌謡の象徴となる。その代表作が、北村桃児(きたむら・とうじ)の筆名を用いて作詞構成し1964年に発表された『元禄名槍譜 俵星玄蕃』であり、一歌手に留まらぬ精力的な創作活動を展開している。以後、数々の日本史上の登場人物や出来事を題材にした長編歌謡浪曲を発表していった。
1986年の第37回NHK紅白歌合戦に、白組歌手として当時最多記録の29年連続29回目の出場を果たす。
特筆は・・・
浪曲師時代の経験を生かし、歌と浪曲を合体させ自らが作詞構成し、
後に三波歌謡の象徴となる長編歌謡浪曲を創造・・・
以降、数々の日本史上の登場人物や出来事を題材にした長編歌謡浪曲を発表・・・
一歌手に留まらぬ精力的な創作活動を展開した・・・
この辺の件が、芸能人としての三波の非凡さ・・・
国民的歌手という自分のポジションに満足することなく、
さらに日々努力し、向上するという強い意志・・・
シンガーというエンターテイナーよりさらに上を目指し、
クリエイターとして芸能界に貢献する、君臨する・・・
という覚悟、自負が伺えます。
さらに晩年の活躍、生き方がが素晴らしい
・・・つづく
・・・前回よりつづき
・・・以下、Wikipediaより抜粋
1957年6月、芸名を「三波春夫」と改めて歌謡界へデビュー。デビュー曲の「チャンチキおけさ」「船方さんよ」のカップリングが売れに売れ、一気に大人気歌手の仲間入りを果たす。
翌1958年、第9回NHK紅白歌合戦に「雪の渡り鳥」で初出場。
戦後の、日本の復興の象徴ともいえる二つの大きな祭典でも三波の存在が光った。東京オリンピックの前年の1963年に、テーマソングとして「東京五輪音頭」がレコード会社8社競作のもとで発表される。三波のほかに、北島三郎や三橋美智也、橋幸夫盤が存在したが、その中でもテイチクの三波盤が突出して大ヒット。250万枚を売り上げる。
6年後の日本万国博覧会のテーマ曲「世界の国からこんにちは」を歌ったことで1970年、リベリアで発行された日本万国博覧会を記念した切手に登場した。日本の芸能人が海外の切手に登場したのはこれが初めてのことであった。また、同曲の三波盤は130万枚のヒットを飛ばした。この頃から、三波は「国民的歌手」と呼ばれるようになった。
そして「東京五輪音頭」「世界の国からこんにちは」の2曲は、三波が生涯最後まで大切に歌い続けたことで、歌手・三波春夫の代表曲として今でも知られるようになっている。
晩年、三波はこの2曲のテーマソングを「生涯の宝物でございます」と語った(1994年芸道55周年記念リサイタル中のMCにて)。
人が羨む立身出世物語。
まさに戦後日本の世紀のイベントである、
東京オリンピックと大阪万博のテーマソングを歌えたのは、
強運といえば言えますが、その役が回ってくるということは、
それなりの実力、実績があったからでこそ・・・
でも、筆者が三波春夫に感銘をうけたのは、
こうした歌手としての成功話ではなく、
別のエピソード、晩年における社会に対する接し方にあるのです。
長くなるので、次回以降で・・・
前回、戦場で散った沢村選手のPHOTOを載せたので
筆者と同じ虎キチのために影浦選手も・・・
(前回、間違えました・・・あの頃は阪神ではなく大阪タイガースでした)
最優秀防御率と首位打者の双方を記録した唯一の男・・・景浦將
1936年秋季に投手として防御率0.79で最優秀防御率、6勝0敗の勝率10割で最高勝率を獲得。1937年、サードの4番打者に転向し、首位打者(秋)、打点王(春)1938年(秋)と群を抜いた活躍を見せ、初代プロ野球日本一と翌年の日本一連覇を牽引した。最優秀防御率と首位打者の双方を記録したのは現在に至るまで景浦が唯一である。
日ハムの大谷くんは、彼以来の偉業をなすほどの選手に育つのか?
・・・二刀流・・・できたら凄いよなぁ
・・・以下、Wikipediaより抜粋
1957年6月、芸名を「三波春夫」と改めて歌謡界へデビュー。デビュー曲の「チャンチキおけさ」「船方さんよ」のカップリングが売れに売れ、一気に大人気歌手の仲間入りを果たす。
翌1958年、第9回NHK紅白歌合戦に「雪の渡り鳥」で初出場。
戦後の、日本の復興の象徴ともいえる二つの大きな祭典でも三波の存在が光った。東京オリンピックの前年の1963年に、テーマソングとして「東京五輪音頭」がレコード会社8社競作のもとで発表される。三波のほかに、北島三郎や三橋美智也、橋幸夫盤が存在したが、その中でもテイチクの三波盤が突出して大ヒット。250万枚を売り上げる。
6年後の日本万国博覧会のテーマ曲「世界の国からこんにちは」を歌ったことで1970年、リベリアで発行された日本万国博覧会を記念した切手に登場した。日本の芸能人が海外の切手に登場したのはこれが初めてのことであった。また、同曲の三波盤は130万枚のヒットを飛ばした。この頃から、三波は「国民的歌手」と呼ばれるようになった。
そして「東京五輪音頭」「世界の国からこんにちは」の2曲は、三波が生涯最後まで大切に歌い続けたことで、歌手・三波春夫の代表曲として今でも知られるようになっている。
晩年、三波はこの2曲のテーマソングを「生涯の宝物でございます」と語った(1994年芸道55周年記念リサイタル中のMCにて)。
人が羨む立身出世物語。
まさに戦後日本の世紀のイベントである、
東京オリンピックと大阪万博のテーマソングを歌えたのは、
強運といえば言えますが、その役が回ってくるということは、
それなりの実力、実績があったからでこそ・・・
でも、筆者が三波春夫に感銘をうけたのは、
こうした歌手としての成功話ではなく、
別のエピソード、晩年における社会に対する接し方にあるのです。
長くなるので、次回以降で・・・
前回、戦場で散った沢村選手のPHOTOを載せたので
筆者と同じ虎キチのために影浦選手も・・・
(前回、間違えました・・・あの頃は阪神ではなく大阪タイガースでした)
最優秀防御率と首位打者の双方を記録した唯一の男・・・景浦將
1936年秋季に投手として防御率0.79で最優秀防御率、6勝0敗の勝率10割で最高勝率を獲得。1937年、サードの4番打者に転向し、首位打者(秋)、打点王(春)1938年(秋)と群を抜いた活躍を見せ、初代プロ野球日本一と翌年の日本一連覇を牽引した。最優秀防御率と首位打者の双方を記録したのは現在に至るまで景浦が唯一である。
日ハムの大谷くんは、彼以来の偉業をなすほどの選手に育つのか?
・・・二刀流・・・できたら凄いよなぁ
・・・相変わらず、予約キャンセル、バックレ者が多くて敵わん!
何度も言うようだが、月60万の損害は年間720万・・・
店の存続に関わる大問題・・・トホホ・・・
ブログを書く気も失せて、ここ4日ほど休んでいましたが、
今日で2月も終わり、明日から3月ということで、
気分を変えて、感銘を受けた三波春夫の話題に戻りたいと思います。
・・・以下、Wikipediaより部分的に抜粋、編集
三波春夫(みなみはるお)1923年7月19日生、2001年4月14日没。本名、北詰文司(きたづめ ぶんじ)。新潟県三島郡越路町(現・長岡市)出身。
1936年、13歳で父親の家業が傾いたために家族と共に上京。築地の魚河岸などで丁稚奉公をしていた。幼い頃母親を亡くした三波に、父親が寂しさを埋めさせたい思いから民謡を教えたのが、三波の歌の原点である。1939年、16歳の時に浪曲師・南篠 文若(なんじょう ふみわか)としてデビュー。1944年、21歳で陸軍に召集され満州に渡った。敗戦を満州で迎える。敗戦後ハバロフスクの捕虜収容所に送られ、その後約4年間のシベリア抑留生活を過ごす。
1949年9月、帰国。浪曲師として復帰。その頃、三味線の曲師であった妻・ゆき夫人と結婚する。50年代半ばに入ると、大衆歌謡演歌が流行り始める。そして、三波はその演歌に大きな魅力を感じていた。時代の流れと共に衰退し始めた浪曲を見つめていた三波は、後に、浪曲師としての活動に終止符を打つ。
1923年、大正12年生まれ。関東大震災の年です。
この年代に生を受けた人は、必然的に太平洋戦争の影響を受け、人生を歩むことになります。
彼も例外ではなく、中国の今の東北地区で軍人として任務につき、
敗戦の責を負い、4年間もシベリア抑留生活を強いられています。
戦争の被害者に有無名の差別をするのは全く意味のないことですが、
あえて有名な人物を挙げると巨人軍の不世出の大投手、沢村栄治がいます。
戦前ベーブ・ルースやルー・ゲーリックとも対戦。1944年、東シナ海で戦死しています。
彼のライバルの我が阪神タイガース(小生虎キチ)景浦將も1945年フィリピンで戦死。
母の計らいで最後に戦場に赴く前に結婚していたと言います(泣)。
この辺りは、よくある戦争悲話で、この頃の日本人全ての老若男女が
いろいろな場所で様々な形で、戦争と、生と死と、向き合っていたのです。
沢村栄治・・・
現代では、野茂やダルビッシュなど、
メジャーで活躍する日本人ピッチャーも珍しくありませんが、
今から100年近く前、日本野球の黎明期、
アメリカの大打者、スーパースターから三振を
バッタバッタと奪うなんて、どのくらいサプライズなのか?
アメリカ人は間違いなく「オーマイガー!」
何度も言うようだが、月60万の損害は年間720万・・・
店の存続に関わる大問題・・・トホホ・・・
ブログを書く気も失せて、ここ4日ほど休んでいましたが、
今日で2月も終わり、明日から3月ということで、
気分を変えて、感銘を受けた三波春夫の話題に戻りたいと思います。
・・・以下、Wikipediaより部分的に抜粋、編集
三波春夫(みなみはるお)1923年7月19日生、2001年4月14日没。本名、北詰文司(きたづめ ぶんじ)。新潟県三島郡越路町(現・長岡市)出身。
1936年、13歳で父親の家業が傾いたために家族と共に上京。築地の魚河岸などで丁稚奉公をしていた。幼い頃母親を亡くした三波に、父親が寂しさを埋めさせたい思いから民謡を教えたのが、三波の歌の原点である。1939年、16歳の時に浪曲師・南篠 文若(なんじょう ふみわか)としてデビュー。1944年、21歳で陸軍に召集され満州に渡った。敗戦を満州で迎える。敗戦後ハバロフスクの捕虜収容所に送られ、その後約4年間のシベリア抑留生活を過ごす。
1949年9月、帰国。浪曲師として復帰。その頃、三味線の曲師であった妻・ゆき夫人と結婚する。50年代半ばに入ると、大衆歌謡演歌が流行り始める。そして、三波はその演歌に大きな魅力を感じていた。時代の流れと共に衰退し始めた浪曲を見つめていた三波は、後に、浪曲師としての活動に終止符を打つ。
1923年、大正12年生まれ。関東大震災の年です。
この年代に生を受けた人は、必然的に太平洋戦争の影響を受け、人生を歩むことになります。
彼も例外ではなく、中国の今の東北地区で軍人として任務につき、
敗戦の責を負い、4年間もシベリア抑留生活を強いられています。
戦争の被害者に有無名の差別をするのは全く意味のないことですが、
あえて有名な人物を挙げると巨人軍の不世出の大投手、沢村栄治がいます。
戦前ベーブ・ルースやルー・ゲーリックとも対戦。1944年、東シナ海で戦死しています。
彼のライバルの我が阪神タイガース(小生虎キチ)景浦將も1945年フィリピンで戦死。
母の計らいで最後に戦場に赴く前に結婚していたと言います(泣)。
この辺りは、よくある戦争悲話で、この頃の日本人全ての老若男女が
いろいろな場所で様々な形で、戦争と、生と死と、向き合っていたのです。
沢村栄治・・・
現代では、野茂やダルビッシュなど、
メジャーで活躍する日本人ピッチャーも珍しくありませんが、
今から100年近く前、日本野球の黎明期、
アメリカの大打者、スーパースターから三振を
バッタバッタと奪うなんて、どのくらいサプライズなのか?
アメリカ人は間違いなく「オーマイガー!」


