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火鍋屋・小黄毛(シアオ・ファン・マオ)のブログ

火鍋を中心とした中国料理など飲食のこと全般
中国語など中国のことあれこれを気ままに書き綴ります

・・・失礼・・・

今回も店の客と言えぬ客に叱咤、叱責を先に・・・

なぜ、予約時間過ぎても店に来ない?
こっちから電話して「キャンセルします」って
・・・コラッ!

・・・(8)よりつづき
三波春夫伝説・・・
・・・以下、Wikipediaより抜粋、編集

【こぼれ話②】
96年の暮れ、永六輔に作詞を依頼、スタジオでレコーディング時の出来事。永は「この歌は、ストレッチャーで寝てても歌える。100歳になっても歌える、そんな歌にしたい。三波さんって、いくら元気はわかるけども90歳で俵星玄蕃はできないでしょう。だったらやってください」と三波に話した。しかし、何度やっても三波は元気に歌い上げてしまう。声を張り上げて歌う。それを見ていた妻・ゆき夫人は永に「永さん、もうやめて下さい。あの人はあの歌い方しかできないんです。力なく元気なく歌うなんてことはできないんです!」と話す。「じゃあ辞めましょう」という永の言葉が出た後に、ゆき夫人は三波がいるスタジオの中に入っていき「あんた、永六輔が言ってることがわからないのか!力抜けって言ったら力抜け。お前は三波春夫じゃないか!ああ、もう三波春夫はいないのか!」と、三波に怒鳴った。それを窓越しに聞いていた永は涙を流した。永は一言「ああ、あの奥さんがいて、初めて三波春夫がいるんだって痛感しましたね」と語った。
三波は、ゆき夫人に言われた後いつもの笑みで一言スタッフに答えた。「もう一度、お願いします」と。永六輔は、今でも悔いているという。それは歌う三波本人にとって、辛い歌詞にしてしまった、ということである。結局、三波はぼそぼそと呟くかのようにこの歌を吹き込んでおり、生きている心地を深く感じることのできる曲となった。4年後、77歳でこの世を去る。

この偉大な歌手の影に偉大な妻あり!
うん、やはり、素晴らしい奥さんだ!

このような奥さんを持ち、立派な家庭を築き、
精一杯、自分の能力の限り仕事ができ
何よりも最期に「ありがとう。幸せだった」といえる・・・
そんな人生を送れる人間は、どれだけいるのだろうか?

店の予約・キャンセル問題から
「お客様は神様です」を経て
大歌手・三波春夫のプロの心意気を知り、
そして、人間・北詰文司も素敵でした。
さらに奥様、娘さんたちの家族の強さ、愛情・・・

三波さん、ごちそうさま、ありがとうございました。

そういえば息子の三波豊和さんは、あまり見なくなりましたが、
今も芸能界で頑張っているのだろうか?

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つづいて三波春夫伝説・・・
・・・以下、Wikipediaより抜粋、編集

【こぼれ話】
1978年、映画『ルパン三世(現在では販売用ソフト「ルパン三世 ルパンVS複製人間」として販売)』の挿入歌「ルパン音頭」と「銭形マーチ」のレコーディングの際の逸話。作曲を手がけた大野雄二によれば収録スタジオにやってきた三波は、もう既にスーパースターでありながら驕ったようなそぶりは一切見せず、収録に参加したスタッフや大野に対しても「宜しく御願いします」と深々と頭を下げ、収録時には18歳も年下の大野に対して「先生、これで宜しいでしょうか?」と何度も確認するなど非常に丁寧な物腰で対応した、と大野の著書にて触れられている。

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・・・さらに(7)よりつづき

1996年暮れには永六輔作詞の『明日咲くつぼみに』をレコーディング、1997年発表。晩年の数年間は永六輔とも交流があり、老人ホームを訪問して、訪問先の老人たちが好きな歌を合唱したりなどの交流活動にも尽力した。
1998年8月6日、さだまさしが平和への祈念を込めて毎年夏に長崎で開催した無料コンサート「1998 夏 長崎から さだまさしコンサート」にゲスト出演。「この山は、この川は」と「世界の国からこんにちは」「大利根無情」を歌った。
1999年12月31日、第50回NHK紅白歌合戦へ10年ぶり31回目の出場。この回が生涯最後の紅白出演となった。当時76歳であった三波がこの時に歌った『元禄名槍譜 俵星玄蕃』は、60年にも及ぶ三波春夫の歌芸の集大成とも言われる。
2000年の5月、生前最後のシングル曲となった「富士山」のレコーディングを家族が見守る中行われた。この頃になると、だんだんと三波の体が弱りつつある状況であったとされている。
2000年11月、故郷の越路町の町制記念イベントで舞台に立ち、渾身の力を振り絞って歌声を披露した。これが現役歌手としての最後の舞台となり、安心したのか、その後体調を崩して翌12月上旬に東京都内の病院に入院した。
入院中に辞世の句と受け取れる「逝く空に桜の花があれば佳し」という句を遺している。これは三波が読み上げ、美夕紀が書きとったものである。2001年の1月末のことで、「辞世の句、みたいかな」と笑顔だったそうである。
2001年4月14日、前立腺癌のため東京都内の病院で死去、77歳。なお、亡くなる3日程前から眠っている状態だった三波だったが、亡くなる2時間前に目を開き、「ママ(ゆき夫人)、ありがとう。幸せだった・・・」と言った言葉が、三波の最期の言葉であったという。


な、涙が・・・

自分もこういう死に方が、否、生き方ができるだろうか?
最後に妻に向かって「ありがとう」と
「幸せだった」と、いえるだろうか?

きっと、奥さんは「こちらこそ」と
返したんだろうなあ・・・

ゆき夫人も、娘の美夕紀さんも、この家は・・・
きっと仲の良い家族、幸せな家庭であったんだろうなぁ

もう少し、いい話つづきます・・・
お客様へ
(三波春夫のいうお客様とは、違う!断じて!)

お願いがあります・・・
予約後のキャンセルは、本当にやめてください。
頼むしかしかありません・・・
キャンセルの可能性のある方は、予約しないでいただきたい。
どうか、わかってほしい・・・
キャンセルするなら、予約するな!

・・・怒りを鎮めるために今日も書きます
・・・そのためにリライトしているようなものです
・・・三波春夫伝説

・・・(6)よりつづき・・・

・・・以下、Wikipediaより抜粋、編集

1992年、シングル『ハウスおまんた囃子』でハウス・サウンドを導入。ライヴ・イヴェント"HARUO IN DANCE BEAT"では電気グルーヴと共演。シングル『ジャン・ナイト・じゃん』ではラップにも挑戦して話題となる。この『ジャン・ナイト・じゃん』ではで若年層にもファンが拡大し、人気ナンバーワンディスコ、ジュリアナ東京でもライブを開催。その当時三波は69歳という年齢での挑戦であったが、圧巻であった。ほかにも「チャンチキおけさ」のラップバージョン等をテレビでも披露している。

1994年1月、体調を崩して訪れた東京都内の病院で前立腺癌と診断された。発見された時点では既に早期発見ではなく、娘・美夕紀が、三波と三波の妻・ゆきを前にして病名を告げた。しかし、三波はたじろぎもせずに「仕事をしながら病気と闘っていきましょう」と家族に語ったという。また、亡くなるまで家族以外には一切病名を隠し通した。
同年はがん宣告以後、三波は長編歌謡浪曲の集大成として制作していた2時間25分の組曲アルバム『平家物語』を構想10年執筆6年という歳月をかけた上で無事完成させる。この「平家物語」は第36回日本レコード大賞企画賞を受賞。
さらに8月には東京・銀座の歌舞伎座にて芸道55周年記念のリサイタルも開催され、その年の仕事を無事に乗り切った三波は、闘病生活に自信を持った。いつもと変わらぬ笑顔でステージに立ち続けた三波であった。

69歳にして、ハウス・ミュージックやラップに挑戦。
大正生まれが、ジュリアナでライブ・・・
今も昔も、他にもこんな精力的な活動をした、
活動をする超のつくベテラン歌手はいたのか、
いるのでしょうか?

がんの宣告を受けた後も、それ以前と変わらぬ仕事を
こなしているしているようですが・・・
辛くないのだろうか?痛くないのであろうか?
私自身はガンの経験がないので理解できないのですが、
昨年、母親が肝臓ガンを宣告され、手術しました。
ガンの場所、種類、進行状態など違うので、
一概には比べられない、言えないのでしょうが、
その時の母親を見ていると、とても仕事など出来る状態ではありません。
何よりも気が滅入っている様子で、生に対する意欲をなくしていました。
それが、ステージに立ち続ける・・・
カラオケで何曲かとは違うでしょうに
しかも、いつもと変わらぬ笑顔・・・
いくら仕事とはいえ、
それがトレードマークとはいえ
スッゲエ、じいさん!やなぁ・・・つづく

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