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「わかる」を「分かる」と書くのは、私たちは「分ける」ことではじめて「わかる」ことができるからです。

「水」を例にとってみると・・・

「水・湯」は、それぞれ違う名称を持っていますが、物資的には全く同じものです。両方ともH2Oであることには変わりありません。温度が違うだけで「水」と「湯」という別々の名称を与えて、あたかも違う物体であるかのように区別しています。

「水・氷」は温度が違う上に、液体と固体という点で異なっています。それでも、物質的には全く同じH2Oであることには変わりはありません。

でも液体と固体の差があるのだから名称は違って当然だという見方もあります。

しかし、「氷・つらら」は、水が冷えて固体化したという点で全く同じものであると言えます。但し、軒下にできる氷だけは「つらら」という名称が与えられています。

さらに、同じ「水」でも空から降ってくるときには「雨」と表現します。しかし、温度が下がると「雪」になり、時に「ひょう」「あられ」「みぞれ」にもなります。それでも、気温が上がれば全て「雨」になります。そもそも、どれも元々は「水」であることには変わりありません。

また「水」は細かい粒子となって空気中に含まれると、「霧」「かすみ」「もや」となるし、地面から遠く離れると「雲」となります。しかし、どれも「水(滴)」であることには変わりないので、元々は全て同じものなのです。

現実世界は混沌とした連続体であると言われます。同じ「水」でも、<温度の高低><粒子の大小><現れる場所や時期>によって、「お湯・氷・つらら・雨・夕立・春雨・雪・ひょう・あられ・みぞれ・雲・霧・かすみ・もや」と異なった名称を与えられますが、結局は「水」であることには変わりはないのです。

しかし、同じ「もの」であっても僅かな違いに注目し、異なった名称を与えて、「分ける」ことで現実世界は私たちにとって「分かりやすく」なるのです。確かに、いちいち「軒下に垂れ下がる氷」より「つらら」、「空高くある空気中の細かい水分の白い固まり」より「雲」、「空か落ちてくる冷たい白い柔らかい氷」より「雪」という呼ぶ方が遙かに便利で分かりやすいです。

但し、その名称は人間にとって都合のよい方法で付けられたもので「恣意的」あると言われます。

つまり、「もの」に名前を与えるということは、人間が把握しやすいように混沌とした連続体に、秩序を与え、整然と区別し、「もの」があたかも明確に区分されているかのように見せることなのです。

名前の数だけ「もの」が存在しているように感じられますが、実際にはそうではなく、根本的には同じ「もの」に対して、名前を与えて虚構の区別をしているだけなのです。