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       ダバオ通信  ヤン爺のラストライフ・ダバオ 
          Last Life Shift In Davao Philippines
 
   
        フィリピン社会に戸惑う ダバオ隠居物語
              「団塊 百年の孤独 老いの抗い」 
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「マサカこんな事になろうとは」

人生で
何かあるなんてわからない

素人の予想であろうと
専門家の推測であろうと
明日どうなるかなんて
誰にもわからない

現実は常に予測を超える
マサカは 必ずおこる

コロナがこれほど長く
持続するとは
全く予想していなかった
せいぜい 1年か
1年半くらいで
終るだろうと

ウクライナ戦争も
同じかもしれない

マサカの事態は
日常生活の
どこにでも起こりうる

コロナ3年目

そしてまさかの戦争まで

どうしたって

しゅんとしてしまう

 

 

でも 日常は続く

できる範囲で

ゆるく元気に過ごす

生きているうち
健康であるならば
楽しくやろう
孤独で寂しいではなく
ひとりの自由を満喫



 

人さまから見れば

自分の生活は単なる「普通」
平日も休日もなく

ザ・ワンパターン 

連日 その繰り返し

 

「地味すぎる生活」なので

何の影響も受けようが ない

 

普通をつまらんと

思っているかというと

コレが真逆

 

もしも明日から

豪邸でセレブ生活してほしい

そう言われても 全力で拒否

 

1億円あげるからと

言われても断固断る

 

自分は仕方なくとか

金がないからとかで

こんな暮らしを

してるわけじゃなく

あえて自分が

選びとった暮らし

 

若い頃は

それなりに派手な暮らしも

経験し その楽しさも

知らないわけじゃないが

 

その挙げ句の

最終結論がコレ

これこそ最高の暮らし

我が元気のモト


 

朝 目が覚めたことが

幸福と思えれば

毎日が絶対に幸福

大きな夢だとか

楽しみよりも 

粛々と毎日を重ねている老男

 


 

そして年齢や環境で

自分を制限しない

自由な精神の老い人

うんと年下の女の友がいる

そういった関係を築けるのも

ダバオでは 既成概念を超えて

自由に物事を考えられるからだ

 

人間は 遥か昔から

自分と共に

人生を歩んでくれる

人との出会いを

繰り返し求め続けてきた

 

自分も女も

それぞれが未来への

少しの希望を持ち

願いながら生きてきた

 

異なる場所に生まれ育った

男と女が 気持ちを通じ合わせ

そのあともずっと相手を思い

また 人生の支えとして

感じられるほどの

出会いができた男と女

 

人と人が 出逢うことは

人間がこの世に

生きていることの中で

一番不思議で 

一番魅力があって

何よりも奇跡に近い出来事

 



嫌いな人じゃないのに
雑談が盛り上がらない
人がいる

今になって思えば

あれは
「相手の会話の返球が
   速い」のが
原因だったのだ と
腑(ふ)に落ちる

雑談をしていて
「そうですね」
「ありがとうございます」
みたいな常套句や

「どうなんですかね……」
「そうかもしれませんね……」
曖昧な尻すぼみの返事だけで
すぐに相手に
ターンを返す人とは
盛り上がる話も
盛り上がらない

会話における
相手の印象というのは
何を話したかよりも
心地よくキャッチボール
できたかどうかのほうが
よかったりする

会話の返球が速い人
「感じたことのない
   返球の速さ
   投げれないよ
   もう ピッチャーより
   キャッチャーの方が
   球 速いんだもん」

雑談が弾めば
お互いの人間性や
バックグラウンドも
理解できるようになる

相手のことを知れば
相手の立場にたって
考えるようになる

気楽にまじめな話をする
「そもそも論からはじめる
   まじめな人だからなあ
   話が面倒くさくて
   困ってしまうなあ」
そんな反応



 

頭の中で
ガチャガチャ
してしまったものや
渦巻いてること
そういうものを
ブログとして
表現できると
自分が 少しラク

楽しいことでも
イヤなことでも
書くと気持ちが
落ち着く

書きながら 自分を
見つめ直すこともある
感情を整理したり
そうでもしていないと
心のザワザワが
立ち去っていかない

あまり 
物わかりよすぎると
書くことが
なくなっちゃう

ありがたいことに
そんな自分を
面白がってくれる
人たちも
いるもんだから
これまで 図に乗って
ブログを書いてきた



 

共感できる=面白い
共感できない=面白くない
そう思い込み過ぎずに
共感できないものは
共感できないものとして
置いておけば いい

共感できないものに
触れることは
あなたの感情の種類を
増やしている

でも 共感できる面白さ
安心感もある



学者やなにかは
なんとか協会の統計や
国の資料をもとに
「○○年ごろから
   □□年ごろにかけて
   これこれこういうような
   変化があった」
というように 
読み解いているが
数字に現実感が 伴わない

書籍を残せたような
ひとかどの人物以外の
大衆と呼ばれる人たちが
日々の生活を
SNSに残せるように
なっているから
そこにあるのは「実感」
それはインターネットの
普及によってもたらされた

ブログ SNSなんかには
個々人の細かい日常が
これといった目的もなく
放流される

いくらか
「盛った」もので
あったとしても
名もない人間の生活が
そこには記されている

この世に生きた人の
言語化も記録もされない
本人すら忘れてしまって
いるような些細な記憶

そういうものが
その人がSNSを退場すれば
失われてしまう

歴史に残るような人や
出来事ではなくとも
それぞれに人生があり
記憶があり 経験がある

そこにあった景色を
どこかに残しておきたい
ブログやSNSには 
そんな想いが
反映されている

だれかが
生活について 書いた
Twitterなど
「昼飯 なにを食べている」
なんて くだらないなんて
言われていた

それは  あまりおもしろい
使われ方だとは思わないが
それこそが 貴重

10年後 50年後 100年後
そういった生の情報に
当たれることは
それだけの価値がある

100年前 
文献を残せなかった
人間の生活をたどるのは
ちょっと むずかしい……

そういったものを
記録していた人も
いるだろうが
サンプル数は少ない

個人の小さな記録を追う
歴史学者なんかも
希少価値があるから
100年前を追っている

が 今やネット時代
みながとは言えないにせよ
どうでもいいような
人間の食生活が放流され
保存される時代

どうでもいいような
人間の食生活とは
オレが
「今夜もキムチ鍋を食べた」
というようなもの
ときどき 肉や野菜の値段に
触れているかもしれない

「今日は
   味噌を入れ忘れたので
   味に深みがなかった」とか
書くかもしれない

それによって
「この時代に食べられていた
   キムチ鍋というものの
   レシピのなかには
   味噌を用いるものも
   あったのか」と わかる

いや レシピサイトが
残っていれば
それでいいのだけれど



 

AIよ
「そんな細かい
   どうでもいい情報を
   誰がいった と
   いいちいち拾うのか」

まとめられた
統計情報以外の
バラバラの言語情報を
人力で
すくい上げるのは大変

AIならどうだろうか
個々人がバラバラに記した
手袋も ジーンズも 鍋も
すべてすくい上げて
その時代の姿を
浮かび上がらせて
くれるのでは ないか

浮かび上がらせて
どうするのか
なんの役に立つのか
それに 答えは ない

しかし
「なんか 残せるものは
   残しておいたほうが
  よくない?」という



 

ロシアの
ウクライナ侵攻について
世界中の人間が
どんな情報に接し
どんな感じ方をしたか
表明することは
無駄ではない

世界平和という
お題目がなくとも
ネット時代の
国家間戦争における
情報戦というもの
なんらかの知見が
のちの軍略家に
知識を与えるかもしれない

でも

そんなことに比べたら
鍋になにを
入れていたかを
食糧生産の参考に
してくれるほうが いい

21世紀の

日本再現ドラマが
あったとして
それの参考になったほうが
平和でいい

名もない人間たちが
ネットに放流する
情報というものは
いずれ価値が出てくる

人間は
歴史に学ぶもの
だということは
今後も変わらない
その学びのためになる



 

「ため」なんかのために
ブログを書く必要は ない
ただ 書いて
自分ひとりのために
自分自身の生活や
人生の整理にしてもいい

ちょっとした
読者のためになれば
というだけでもいい
なんだっていい だから
食ったものだけでいいから
ネットにアップする

そしたら たぶん
ネットを片っ端から
飲み込んで
整理 分析するAIが
なにかいいことに
してくれる



 

もっとも どうせなら
100年後のだれか個人に
今のおれの
ありのままの生活
心情を読んでもらうことを
想像するほうが 楽しい

しかし 消え去っていく
ネット情報とはいえ
放流した情報が
100年後もネットを
漂っていると
想像するのも
すこし厳しいものがある



 

まだ
インターネットの黎明期
いや 黎明期より
ちょっとあと
Wikipediaあたりが
充実してきたころ

 

自分はこう思っていた

ネットの情報は
すべて保存されていく
膨大な情報量が
保存されていくのだ と

無邪気な
妄想に過ぎなかった
「無料ホームページ
   サービス」が
閉鎖された
そこにあった色々な
思いや考えが書き込まれた
「個人ホームページ」は
なくなってしまった

多くのものが失われた

同じように、
あるブログサービスが
閉鎖されたら
やはり多くの人々の
日々の生活や思考の
情報が失われてしまう

過ぎ去って

しまってからでないと

それが何であるか

わからない何か

それが何であったか

わかったときには

もはや失われてしまった何か

書いていた 人の中には
「ログイン方法も
   わからなくなっていたが
   あんなブログは
   消されてよかった」
と 思うかもしれない

ネットの情報には
残されないほうがいい
というものもある
「デジタルタトゥー」

拡散されてしまった
悪意ある情報
個人や団体についてのデマ
だれかの消したい過去
そんなものは
当人によってコントロール
されるべきで あるかも
「忘れられる権利」

情報が残されるべき
公共的な価値が
あるかどうか
そのあたりは
個々のケースにおいて
判断されるべきだろうし
その大まかな
線引きというものは
時代とともに
移り変わるもの



 

自分が「残れかし」と
ここで主に述べたのは
もっとどうでもいい
情報についてだ

匿名の人間の
とくにどうでもいい
「最近 コンビニの肉まんが
   小さいような気がする」
とかいう つぶやきだ
おにぎりも小さくなっている
かもしれない



 

そのあたりを
企業の公開情報や
政府の統計情報と
突き合わせて
100年後の時代の姿が
見えてくるかもしれない

が 厳しいかなと
思えるのは
たとえば個人が使用していた
サービス以外の
たとえばガジェットの情報を
伝えていたようなサイトも
サービスが停止されると
更新ばかりでなく
過去ログまで消されるという
現実を目にしてのことだ

もちろん 過去の記事に
責任を持ち続けることは
できないだろうし
責任の主体が
いなくなってしまっている
かもしれない

サーバにデータを置いて
インターネットに
公開するということに
コストが発生することも
わかる

だが 消えてしまうのだ
心情として
もったいないという思いが
先行する

結局のところ 紙なのか?

40年ほど前の
雑誌を通して
ファッションや音楽 
食を楽しむ行為という
雑誌の価値に触れても
楽しい 

とはいえ
自分は刻みつづけるだけだし
100年後にもネットの片隅に
自分の書いたものが
漂っていればいいなと

できれば
だれか人間が発見して
なにごとかについて
共感すらしてほしいと思う



 

雑談は
「気持ち」を
「言葉に」変えて
外に連れ出す手伝いを
してくれる

人生には
あきらめが必要だ
継続は力なりって言葉は
嫌いだし
背中を押されるなんて
言葉も気持ち悪い

「ま いいか…」
というくらいが
自分にとっては
ちょうどいいんじゃ
ないかな

しかし
生きている限りは
生き抜きたい

過去でも 未来でもなく 

今を生きたい

 


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