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           ダバオ通信  ヤン爺のラストライフ・ダバオ 
              Last Life Shift In Davao Philippine 

             
            フィリピン社会に戸惑う ダバオ隠居物語
                  「団塊 百年の孤独 老いの抗い」  
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三角にとがった 切り口は
目にも涼やかで かぶりつけば
甘さと水分が 口いっぱいに 広がる

持てあます西瓜ひとつやひとり者

1200年続いた
古代オリンピックは 滅びた
その復活を願って始められたものが
どうして滅びないことが あるだろう

五輪発祥の地
オリンピアを訪れた
沢木耕太郎さんは そう記した

1996年の話である

近代五輪100年を記念する大会は
アテネでなく 米国の地方都市
アトランタで開かれた

テレビ局や多くの広告主が
本拠地とする 米国での開催は
五輪が巨大資本の前に ひれ伏した
象徴的な出来事だった

近代オリンピックは
いま ゆっくりと
滅びの道を
歩み始めたのでは ないか
この懸念は
決して過去のものでは ない

コロナ下でも 開催された
東京五輪が 閉幕した

フィリピン人選手も 活躍した

選手たちが 示してくれた
スポーツの価値も
主催者の強権的な姿勢と
爆発的な感染拡大の前に かすんだ

大会理念の「多様性と調和」が
うつろに響いたのも
人権意識の希薄さを 露呈した
組織委員会の迷走と無縁では ない

今回の東京五輪
あまりにも ウソが 多かった

招致段階で 当時の安倍晋三首相は
東京電力福島第一原発事故に ついて
「状況はコントロールされている」と
発言した

原子炉建屋内には
メルトダウンした核燃料が
取り出せない ままで
汚染水も 日々たまっているなど
事故が 今も 収束していないのは
周知の事実

当初 盛んに言われていた
「復興五輪」も ウソ
東北復興とは 
何の関係もない 五輪だった

招致委員会が提出した
立候補ファイルでは
開催時期の東京の気候が
「温暖でアスリートが
   最高の状態でパフォーマンスを
   発揮できる理想的な気候」と
うたっていた

8月の日本は 北海道も含め
どこも暑いことを 知っている

大会開催中
テニスのジョコビッチら選手からは 

異常な暑さに 怒りの声が 上がった

約束した コンパクトな開催が
3兆円を超える金が 費やされた

この半世紀
五輪には人種 民族
政治の問題が つきまとう

商業化と肥大化の果てに
開催地の犠牲の上に成り立つ
巨大な収奪装置と化した

クーベルタン男爵に とって
五輪復興は 高貴なる者の
責務を果たす 夢だった

スポーツの本来の意味は
「気分転換」で あり
それが貴族たちの
野外の余暇活動となり
身体を酷使する競技となったのは
19世紀以降であることを 学んだ

五輪は貴族や
一部の利権者のものでは あるまい


人類の手に取り戻す哲学が 問われる

酒を吞みながら 考えてみたい

 

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パプアニューギニアの奥地の村で
「サブロー」と 名乗る
現地の老人に出会った体験を
ツアーで訪れた 若い女性が
ガイドブック「地球の歩き方」に
寄せていた

日本人と分かると
珍しげに寄ってきて
「夕焼け小焼け」を
歌いだした そうだ

まさか こんな所で
日本の童謡を 
歌える人が いるなんて

試しに 女性が
「雨雨降れ降れ母さんが…」と
口ずさむと
「ピッチピッチチャップチャップ…」と
おじいさんが 合いの手を入れ
時ならぬ 合唱になったと いう

戦時中
日本兵が 村の子どもを集め
学校と称して 日本の歌などを
教えていたらしい

そのとき
子どもの 一人 一人に
日本名を つけたのだという
かつて日本が 占領地で行った
皇民化教育の 名残りだ

サブローさんは 
もう 亡くなって いるだろうが
戦争の遺物は 今も 残されている
ジャングルでは 墜落した
旧日本軍機が 朽ち果て
丘では 赤さびた
高射砲が 空をにらんでいた
その写真を 目にした

日本から 南へ5千キロ
大東亜共栄圏の名の下
赤道をまたいで ここまで戦線を
広げていたかと 慨嘆に駆られる

日本兵戦死者は
ニューギニア島全体で 13万人

「足の上に 物を落とされてね
   うっかり『イタイ!』なんて
   日本語を口にしたら 殺された
   だから母の部族の刺青を腕に入れて
   フィリピン人の ふりをして
   戦後を 生き延びてきたんだ」

かつて そう話していたのは
フィリピン南端のミンダナオ島
ダバオ郊外に住む 高森義鷹さん

1931年生まれの高森さんは
戦前 フィリピンに移住した
広島出身の父と
ミンダナオの山岳民族である
タガバワ族の母を持つ

ダバオ郊外の ミンタルには
過去に日本人が住んでいたことを示す
様々な慰霊碑や歴史資料館がある

1994年に

東京武蔵野ライオンズクラブにより

フィリピン – 日本歴史資料館がオープン

 

1903年から 第二次世界大戦の

1942年~1945年の終わりまでに

ダバオにやってきた 日本人移民の記録が

資料館で展示され 見学できる

 

 

ミンタルの地名は、民多留が元だった

今でも 地名が そのまま使われていて

感慨深い

 

フィリピン人に 対して

ミンタルと言う名前は

昔このあたりに住んでいた日本人が

考えたものらしいと 伝えたところ

「えええ 全然知らないっ」

 

日本人が 

昔住んでいたことも 知らなかった

戦争が あったことも 知らない

若い人には そんな 昔の話は

特に興味が 無いですよね……

ミンタルでは

戦前 日本人が 2万人住んでいた

戦前の当時の人口で 2万人

かなりの密度で

多くの日本人が 住んでいたと

想像できる

すごい数の 日本人の人口密度だった

まさに リトルトーキョー

そして 日本人の力で

ダバオの経済は 活性化した

日本人移住者は お金を稼いで

ローカルコミュニティを育み

現地のフィリピン人と結婚した

 

日本人移民と現地人女性との結婚の結果

現在も 日本人子孫が 多い

しかしなぜか 

戦前の2万人の日本人移住者は

現在の華僑のように

その時 培った商売を生かして

大きな事業を 現在に残すなどが

できなかった

それは なぜだったのでしょうか

米軍の統治下にあったフィリピンは
太平洋戦争における
日米の激しい地上戦に 巻き込まれた

フィリピン戦線での
日本人の戦没者は
軍民あわせて52万人だが
フィリピン人は
その2倍を上回る 110万人もの
犠牲者を出した

戦後 
高森さんのように
日本人の父を持つ 子どもたちが
反日感情の渦巻く
フィリピンに 取り残された

残留した 子どもたちは
日本国籍の回復を果たせない まま
他界した者が 数多い

今も 700名以上もの 残留者たちが
日本政府から「日本人」と
認められる日を 心待ちにしながら
残り時間の 少なくなった
人生を生きている

戦後76年目の夏を迎えた ダバオ
平穏 平和である

 



東南アジア最大の 日本人社会が
戦争で 一変した

高森さんの父親は
戦前に広島からミンダナオへ移住
タガバワ族の女性と結婚し
生まれた 4人の息子とともに
フィリピン最高峰である
アポ山の 山中で暮らしていた
仕事のかたわら
猟師として野生の豚などを仕留めては
日本人に 売っていたという

太平洋戦争 前夜
フィリピン全土に暮らす
日本人移住者は3万人を超えていた

明治期以降
決して豊かではなかった 日本は
積極的に移民送り出し政策を進めた
新天地での可能性に賭けて
多くの日本人が
北米や南米 南洋群島や
中国大陸などを目指して海を越えた

フィリピンには
ルソン島バギオや
ミンダナオ島ダバオなどを 中心に
東南アジア最大の 日本人社会が
築かれた

高森さんの父親のように
地元の女性と結婚した人も多く
沢山の 2世たちが 誕生した

フィリピン最大の
日本人社会であった
ダバオの入植者たちは
アバカ麻の特需に沸いていた

内地より 良い暮らしが できた

フィリピン各地で
地域に溶け込んで暮らしていた
在留日本人たちの生活は
太平洋戦争の勃発とともに  一変した

米軍の統治下にあったフィリピンに
日本軍が侵攻 在留日本人は
軍人や軍属として徴用され
国家総動員体制に

組み込まれていった

日本語と現地語の両方を話せる
2世たちは 重宝され
母の国と父の国のはざまで
引き裂かれていく運命を辿る

戦後 日本憎悪が渦巻く
フィリピンに取り残された2世たち

高森義鷹さんは
開戦当時 10歳の少年だったが
田野隊という部隊と
行動を共にするようになり
食糧調達などの雑用係として協力した

米軍の攻撃が 激しくなり
部隊は バラバラになった

1945年8月に迎えた日本の敗戦
日本人の父は
収容所に入れられた のちに
日本へ 強制送還され
高森さんは フィリピンに残留した

義鷹さんは
タガバワ族の刺青を腕に入れ
高森義鷹という 日本名を封印
エスタカ・オティと名乗って
戦後のフィリピンを 生き抜いた

高森さんのように
父と離れ離れになり
戦後フィリピンに残留した2世たちは
4000人近くいたことが わかっている

当時の国籍法は
フィリピンも日本も
父系血統主義を とっており
法律上 彼らの国籍は日本

しかし 日本政府が
彼らを日本人だと 認めなければ
「無国籍」という
極めて不安定な状況に
置かれたままになる

彼らが
日本国籍を 回復するには
自力で証拠を集め
親の婚姻と自身の出生を
証明して
日本の役所に届け出る

だが 日米の
大規模な地上戦に巻き込まれた
フィリピンの惨状を 思えば
保管した記録もろとも 焼失した
市役所や教会が 数限りなくあった

また 迫害を恐れ
父につながる証拠を
自ら山中に埋めたり
焼き捨てたりして
戦後を生き延びた

残留者も 少なく ない

その結果
700名以上の2世が
日本国籍の回復を
果たすことが できずに
無国籍状態のまま
フィリピンに 残留している

平均年齢80歳を越えた
彼らに残された時間は 少なく
日本国籍を 切望しながら
年々多くの2世が 他界している

国会で読み上げられた 父の遺書

それは 現地で徴用されて
戦死した日本人移民の 橋本茂さんが
妻のロザリオさんに宛てて書いた
1通の遺書

 



「汝の一生に対する 余の希望は
   ロザリオさんとの 一人娘を
   日本人として育て
   名誉ある 父の子として
   誇りを以て育てよ
   汝 もし 一身上のことで
   思案に及ばざること あらば
   日本帝国政府に懇願し
   援助を受けよ
   天皇の国 大日本帝国は
   すなわち 汝らの父の国にして
   同時に汝らの保護者たること疑いなし」

日本人が 経営していた
現地のプランテーション会社
古川拓殖の マネージャーとして
働いていた 橋本茂さんは
日本軍に徴用され ダバオで戦死した
妻ロザリオさんに 宛てて書いた

茂さんの遺書

フィリピンに
残留した方たちの 国籍回復は
日本が戦後残してきた課題
もはや先延ばしには

できないことは 明らか
早期の解決のためには
政府が 動かないと
いや 動かさなければ いけない

日本人というルーツゆえに
苦しみを 味わったからこそ
あえて日本人として生きることを
選ぼうとしている方たちの気持ちが
痛いほどわかる

フィリピンに残留した方たちが
日本人というルーツゆえに
苦労したからこそ
日本人であることにこだわる
その思いには 深く共感できる

日本政府は 責任を果たせるか 
残された時間は 少ない

フィリピン残留日本人たちが
求めているのは
「日本国籍」の回復のみである
平均年齢が80歳を超えた今
中国残留孤児のような
帰国支援を求めているわけではなく
経済的な保障を

求めているわけでもない
ただ 自分が父の国に
確かに連なっているのだということを
人生の最晩年に あって

確認したいと 願っている

自分たちの戦前の
穏やかな生活が跡形もなく破壊され
母の国と父の国のはざまで引き裂かれ
父と離れ離れになり
日本人という十字架を 背負わされ
息を潜めて 生きてこなければ
ならなかったのは 一体なぜなのか
その答えを示すことが できるのは
日本政府をおいて ほかにない

残留者たちの置かれた状況は様々
就籍という方法が 難しい
残留者も含めて一括で
国籍取得を実現するには
最終的には日本における
特措法が不可欠と なってくる

年々 生存者が減っている状況で
残された時間は 少ない
日本政府が 責任を果たせる
最後のチャンスと言える

当時20歳で
南方の戦場などにいた兵士たちは
今 どれほど生きておられる かだ
語られていない記憶を
語り継ぐ者が 亡くなれば
渋谷で遊ぶ若者も
道頓堀で飲む中年サラリーマンも
日本が アジアで戦争したことさえ
知らなく なりそうだ・・

五輪が閉じ 鎮魂の夏が巡る
15日の終戦記念日を 前に
盆の入りだ

周囲を田んぼに囲まれた
夕暮れ時の墓地
墓前では 複数の家族が敷物を広げ
重箱入りの手料理を 囲んでいる
子どもからお年寄りまで20人
運動会の昼食時を 思わせるような
にぎやかな光景



 

墓に料理を供え
先祖と食事を 共にしている
墓前供養や 相伴などと呼ばれる
先祖供養の意味がある

一人一人が 元気な姿を墓前に見せ
亡き夫ら 先祖に対し
「いつも見守ってくれてありがとう」と
感謝を 伝える

人は 死んでなお
霊魂は 故郷にとどまり
正月やお盆には 家に帰ってくる
日本古来の民俗習慣や死生観
亡くなった人々を 悼む気持ちは
純粋なものだ

死者の魂が とどまるという
考え方の延長に「生まれ変わり」の
信仰が あったのも
残された人の 

よりどころとなったと 考えれば 

自然では なかろうか

コロナ禍で 2度目の盆
いつもなら帰省するはずの家族と
再会できず 寂しく思う人は
少なくないに 違いない

遠く熱帯に眠る み霊には
聖火に 代わって
それぞれの郷里にともる 迎え火が
見えるだろうか
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どうやら
「ゼロコロナは 永遠にやってこない」

既存のワクチンは
コロナ感染症の重症化や
死亡を防ぐ という意味では
かなり効果的だが

ワクチン 重症化率の

引き下げ以上の効果は ないようで

今の注意深く暮らす状態から

抜け出せそうに ない

 



ワクチンを 2回接種済みの人が
ウイルスに 感染することを
防ぐものでは ない

それでも ワクチン接種で
重症被害が 出にくくなれば
感冒ウイルス(かぜ)と同じになる

コロナも
「季節性感染症」の一つになってしまい
やがて 気にさえしなくなるでしょう

日本のニュース番組で
記者会見を 観ていると
言葉や身体表現が
豊かな国に長くいる 自分には
あまり表情のない顔から
発せられるメッセージは
クリアに 伝わってこない

普段 日本語を使っていないから
そう感じるのかも しれないが
あまりにも 語彙の豊富な日本語は
会見者が いったい いつまでに
なにを どう 具体的にするのか
わからない

行く川のながれは絶えずして
しかも本の水にあらず
よどみに浮ぶうたかたは
かつ消えかつ結びて
久しくとどまることなし
(方丈記)

川の水は もとの水ではない
どんどん変わる
水の泡も生まれては
パッと消えてしまう
これも『枕草子』と 同じですね

すべては 変わってしまうものだ
あまり こだわっては いけない
サラサラと流れるように生きていこう
これも 日本人の生き方ですね
「潔い」これが 日本人

ところが 自分自身はと いうと
いつまでも 元気で いたいから
死や病という変化が 怖い

そういう時に
『枕草子』や『方丈記』
『おくのほそ道』を 読むと
変わっていくものの中に
味わうべきもの
心を動かすものを発見して
生きていけば いいんだ
その思いに駆られる

また それを見つける目を
養っていかなくては いけない
それが日本人の風流の生き方  

コロナへの対処
あなたなら どうする

 


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