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ダバオ通信 ヤン爺のラストライフ・ダバオ
Last Life Shift In Davao Philippines
フィリピン社会に戸惑う ダバオ隠居物語
「団塊 百年の孤独 老いの抗い」
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映画は 自分にとって 人生の時々に 重要だった
「ダバ ダバ ダ」の スキャットが 全編に流れる
スタントマンの夫を 事故で亡くした
スクリプト・ガールのアンヌ
娘を寄宿学校に預け パリで 一人暮らしを していた
ある日 娘に会うために 寄宿学校に行った帰り
パリ行きの列車を 逃してしまう そんなアンヌに
ジャン・ルイという男性が 車で送ると 申し出た
ジャン・ルイも 同じ寄宿学校に 息子を預けており
また 妻を 自殺で 亡くしていた
たちきれぬ過去の想いに 濡れながら
愛を求める その姿は 男と女
同じ監督が 同じ俳優を 使って
53年後に 同じストーリーを 撮る
ジャン・ルイ 今は 老人ホームに暮らし
かつての記憶を 失いかけている
彼の息子は 父親を 助けるために
父が ずっと追い求めているアンヌを 探す決心をする
果たして アンヌは ジャン・ルイと 再会
2人の物語を また あの場所から
始めることが できるのか・・
う〜ん と 唸った? こう言う 人生の撮り方
53年たった
ジャン=ルイの老いた顔が 大きく映し出されたとき
こういう映画が 撮れる フランス 人生の粋
こういう文化的土壌 日本には ない
クロード・ルルーシュ監督
「男と女」の 続編にあたる
「男と女 人生最良の日々」
フランスの小説家 ビクトル・ユゴーの言葉
「人生最良の日々は まだ 生きられて いない」
自分は フィリピンに暮らし
過去より どんなに 困難であっても
今 生きている現在を 大切に し続けてきた
未来は あまりにも 大きな疑問符
現在が 一番単純明快で 自分に 属している
53年経って 同じ監督が 撮り
老いた 同じ俳優が もう一度『男と女』の 中に
幻想的でありながら 眼前の時間経過の現実
『生きるという様子』が 滲み出る
やぁ! みなさん ごきげんいかがですか
あなたの心と躰 お変わり有りませんか
苦しまずに生きる術を学ぶための》
ヤン爺です 今日も ダバオにいます
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「追い山」
七つの流(ながれ)の「舁(か)き山」
福岡市博多区の 5キロのコースを 疾走
沿道から 勢(きお)い水が 飛び交う
締め込み姿の男たち
「オイサッ オイサッ」の かけ声が 響く
この時 男たちは 力の続く限り走る
何も 考えずに走る それが いい
大勢の見物客の 流れに溶け込み
人目を気にせず 大切な人と 手をつないで歩いた
日本人 その幸せを しみじみと 感じたろう
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社会では 共感が 暴走
ハイタッチしたら 共感なのか
漫画に 共感集まるなどの 表現もする
共感の 一方
自分に 直接関係のないことにも
「許せない」と 過敏に意見する人も 増えていた
時間が 経つと そんな事 無かったかのように
もう 目を 背けている
「知らない人に 大丈夫ですか?」
声掛けたら 不審者扱い されるもんな
最近は 見て見ぬふりするように なった
以前は 他人に善行するのは
気持ちよかったから 進んで 声掛けていた
あなたが・・ う〜ん
これはガチ 或る日
俺が 気分悪くなって 倒れて動けなくて
通行人に 助けを 求めたけど
みんな素通りで 介抱してくれたのは
外国人の コンビニ店員だった

「日本は 自己責任の国だからな」
困ってるのは そいつの努力が 足りない せい
一億総中流と呼ばれた時代は 遠くなり
格差は 固定され 階級は 社会化
自分が いつ アンダークラスになるか 分からない
余裕のない社会で 他人を助けようという 気持ち
起きにくくなっている
俺が 強く感じるのは
フィリピンに住み 知らない所に 身を置くと
自分の中を ガーって 揺り動かされて
自分のコアみたいなものが 発見できる
日本社会の外に出ちゃうと 何者でも ない
それを 辛いと思うか 楽だと思うかで 言うと
自分は 楽に感じる方 だったんだと 思う
自分が 今まで 見てきたのは
会社で みんな同じような 服を着て
何歳になったら このくらいの ポジションになって
同じ業界の人たちと 見た目仲良く やっていく

あなたは 今 フィリピンにいるのが
ハッピーと 感じてますか?
そうですね まず 体が ハッピー
暑すぎず 寒すぎず でも 季節感が ある
そして 広い空が たくさん見える 海も青い
フィリピンに 住んでいるとね
考えなくていいことを 考えさせられる
それが 嫌いじゃない
ここで 自分が 完全に 少数派だから
少数派に関する ニュースが あった時
フェアじゃないなって 思い知らされることも 多い
フィリピンに 住むようになった 日本人
経緯は 人 それぞれでしょう
日常の中で 知り合う人の中にも
いろいろなの理由で 日本を 出てきた
他国で 頑張っても どうにか なるわけ じゃない
フェアじゃないことを 見せつけられる 機会が
日本にいるよりも 多い
波風立てず 都合の悪いこと
解決するのが 難しい 大きな問題から
目を背けて みんなと同じようにしていれば 大丈夫
そうするうちに 世間への見方が 凝り固まってしまう
でも「そこ そうじゃないでしょ」と
思い出させる 出来事が たくさんある
フィリピンの政治も そう
地元でも 銃による殺人や モスレムの問題
ホームレスも 多くいるし 貧富の差は 大きい
こうしたことは 日本でも ある
フィリピンでは より一層 目立つから
その光景を 毎日 目の前に ぶつけられ 続けていると
いつも 自分の頭の中の筋肉を 動かしてる 感じがして
それが 嫌いじゃない わかります?

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「両親を訴える 僕を産んだ 罪で・・」
わずか 12歳の少年
法廷で まっすぐ 前を向いて 口を開く
貧困家庭に生まれ 十分な衣食住や
教育の機会も 与えられず
親の愛にも餓えた 12歳 原告の少年
大人たちに 聞いてほしい
世話できないなら 産むな
僕の思い出は けなされたことや
ホースや ベルトで 叩かれた ことだけ
一番 優しい言葉は「出ていけ クソガキ」
ひどい暮らしだよ 何の価値も ない
「生まれてこなければ よかった」
「僕を 愛してくれないのに
どうして 僕を 産んだのか わからない」 と
被告となった 母親は 泣き叫びながら
自らの苦しさを 裁判官に こんな言葉で 訴える
私たちが どんな暮らしをしているか 考えたことある?
一度も ないでしょ この先も ないでしょう
親も また 貧困から 抜け出せない 貧困連鎖
「犠牲者」の 一人として 問題の本質を 訴える
この親子を『かわいそう』と 言わないで
特別視せず 皆で 一緒に育てようという
それが フィリピン社会である それも また事実
「誰が 彼女を ジャッジする 資格が あるだろう」
なぜなら 俺は これまで
食べ物が なかったことも 靴を 買えなかったことも
学校や 病院に 行けなかったことも
虐待を 受けたことも ないのだから
俺は 時に 問題が 大きいことに 気付くと
どこから 取り掛かったら よいか わからず
それが 存在しないかのように 振る舞ってしまう
だから『目を背けてはいけない』という
俺を 戒めるのためにも こうした問題を 考える
目を 背けてしまったら それは 共犯と 同じ
青い空の下の 気持ちのいい 気候のなかで 起きている
そういう「声」を 体で聞いている 腹が 据わった

何も知らなかった 日本人が 外国に住むようになって
人生は フェアじゃない 変えられないものは 変えられない
だから 変えられるところを 変えるしかない
雲の切れ目から 光の柱が 立って見えた
あの光の射(さ)す場所で
神さまたちが きっと 遊んでいるのだと思う
まぶしくて 健やかで 神々しい場所
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理解も 共感もできない 人同士が
社会で 共生するためには 他者の人権を認め
敬意を持つ 共存する態度
日本の中の異国 日本に出稼ぎして 家族を支える
在日フィリピン人の コミュニティの 中には
必ずと いっていいほど 宗教的な施設が ある
彼らの生活の中心には 宗教が あり それが 生活の礎
水道 電気やガスと同じ
必要性を持った「心のインフラ(基盤)」
日本に来て 仕事に励み 生活に 慣れ
同じ民族同士の つながりが できてくると
宗教的な施設を 求めるようになる
フィリピン人で 言えば それが 教会になる
彼女らにとって 教会は 本来 あるべきもの
教会には 誰もが 気軽にやって来られる
社交場としての 役割が あり
異国での寂しさを 和らげる効果も ある
そうした人が 集う 教会が
コミュニティの中心に あった
顔も名前も知らない 匿名性な 人たちが
その場に 居合わせることで
自然と会話が 生まれるような 教会こそ
大切だ と いうことが わかる
自分たちの力で 仲間を盛り上げよう
そうするのでは なく
誰もが 自由に集まって 自由に会話して
自由に帰っていける 空間づくり
それだから 寂しさに耐えられる 気がする

日本人が フィリピンに 住み
コミュニティを 作りづらいのは 無宗教故
そう言う場を 持てない事に あるやも しれない
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自分は 頑固ジジイでは なかった
老いたからでも 決して ない
ある態度が 身についてしまった
今にも 大地震が 起きるとされる 日本で
オリンピック開催は 狂気の沙汰 それ だけでは ない
経済騒ぎの流れとか 自己責任のウネリを 用心している
もはや 政府は 国民になど なんの関心も 持って いない
気がつけば そうしたことを 嫌だ と
言いにくく なっていることが 嫌なのだ
だから あえて嫌だと 言ってみた
思った以上に ビクつく自分 そのことが また 嫌
「共感」が 安易に もてはやされる
「共感」という言葉が 安易に使われる
人間は 弱さと強さとの バランスを とって生きる
人間内部にある 闇 孤独 叉は 楽観
自分は 特別な人間では ないと わかって いる
だから 特別な人間に なろうと 努力してきた
悲観と楽観が 人間を 象徴している
小さな子どもが 困っていれば
多くの人が 共感を 寄せる
困っているのが 元テロリストの 男性だったり
街中にいる ホームレスの人や 乞食だったら
共感して 手を差し伸べる人は 少ない
情動的に 共感できようが できまいが
すべての人が 持っている「権利」を
理性的に 尊重すること それが 人権
他に変えられない 何かは 尊厳
一人 ひとりが 今 大事にされてないから
他人に 優しくできないんじゃ ないか?
すべての人には 権利の下に
「共感しない自由」も ある
そこを 考えて見るが よくわからない
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あなたは 物事を 原理的に 捉えて
問題解決の糸口を 見いだそうとしている
若い人だから そうなって 当然だと思う
年を取って わかるのは 世の中の むずかしい問題は
原理的には 解決できないものが 多いと言うこと
原理から導き出される結論は 極端に なりがち
地球上70億人全員を 平等に支援することは できない
「自分が 理解 共感できる人しか 助けない」と なれば
それは 不人情の そしりを 免れない
現実には
この両極の間の どこかに 実践可能な 解が ある
理解や共感の 個人的な限界を 超えて
どこまで 支援の手を 伸ばすことが できるか
「すべての人を 救うべきだ」と
「共感できる人だけ 救うべきだ」
その中間の「程度」の こと それは 何か?
生きることには 心配する必要など ない 世界

ひとり 一人 手持ちの価値観や 感情の器も 違う
それぞれが ベストを 尽くす しかない
震災の被災者支援に 福島に行く人も いれば
元少年兵や 元海賊の更正を 支援するために
あなたのように ソマリアに 行く人もいる
そこに 一律な ルールの適用など ない
自分が やれることを やる以外に ない 自由な選択
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自由な選択の延長に
恵まれない状況に 置かれる人が 出てくる
学校の 休み時間に
生徒たちが 自由な意思に基づいて 行動した結果
ぽつんと 独りぼっちに なった 子供が いたと する
これは 誰のせいでも ない
その子が その状況に 何かしらの
苦しさを 感じているので あれば
それは どうにかして あげたい
その状況を あなたが どう捉えるかも
その状況に 立ち会った
個人の感情の器の大きさに よるんじゃ ないかな?
放っておこう と思う人も いれば
いや 可哀想だと 思う人も いる
そのとき 自分なら この子を
支援できるんじゃないかと 思った人が
「一緒に 遊ぼう」と 話しかける
それが 計算に基づく行為では なく
無意識の行動である ことです
「何となく そうした」というのが いい
こういう場合には『一緒に 遊ぼうよ』と
声をかけるのが 人道的に 正しいから
そんな 英知的な判断を 下した上で することじゃない
それが 人倫の基本になる「惻隠(そくいん)の心」
なにか 忍者の心得の様な 言葉?
孟子の言う「惻隠の心」
小さな子どもが
井戸に 落ちそうになっているのを 見たら
何も考えずに 本能的に 手を差し伸べる
人間の 自然な情
子どもを 助ければ
子どもの親から あとで 感謝されるだろうとか
子どもを助けなければ 周りの人たちから
「不人情」と ののしられる だろうとか
そういう計算抜きで 思わず 助けに走るのが
「惻隠の心」
こういう 自然な行為が できるためには
それでも いくつかの条件が ある
一つは
自分が 支援しようとしている相手が
自分から見て 弱者で あること
もう一つは
自分の力の範囲内で 救うことが できる
確信できること
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「共感」と「惻隠の心」は 違うものなのでしょうか
どうでしょうね
助けに走った人は 井戸に落ちて
溺れる 子どもの苦しみに
一瞬のうちに 想像的に 同調した
「共苦」の 経験と 言ったほうが わかる
それが 感じられないと
「助けなければ」という ことさえ 思いつかない
「共感」というのは 人それぞれ
独自の 感情の受信器のようなものが あって
他者の発信するメッセージが 受信できたら
それを「共感」と 呼んだら いいんじゃ ないかな
それくらい 広い 大枠な意味で いいと思う
「助けて」という メッセージを
受信できない人もいるし 受信できる人もいる
おそらく あなたの目には
子供が「弱い人」に 映っていて かつ
「自分には その人を 救う力がある」という
実感が あるんだと思う
それが できるのは あなたの持つ
感情の器が 大きいからでしょう
感情の器の大きさは 生得的な 資質です
もともと感情の器の 小さい人に
「大きくしろ」と言っても 難しい
背の低い成人に「背を伸ばせ」と
言っているような ものですから
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フィリピンの道ばたで
苦しそうな ホームレスや乞食の人を 見たとき
手をさしのべたほうが よい と思いつつ
スルーしてしまうことが ある
これを 感情の器の大きさの問題と 考えると
支援できずに 立ち去る俺を 責める事は 出来ない
そういうことに なりますよね
頭では 理解できますが
強い葛藤を 覚える 俺も いて・・
どう 考えるべきなのだろうかと 素直に思う
同情する気持ちは あるんだ けれど
どうしても 体が 自然に 動かない
街角にいる乞食は 悲壮感ズラなど していない
全盲の40くらいの男 ギター弾き 座り 歌っていた
俺は その前を 通り過ぎようとした
連れの女性が 小銭入れから 10ペソを 缶に入れた
彼女にとって 10ペソは もし 路上に落とせば
見つかるまで 必死になって 捜す 価値有る コイン
俺は 無言で 彼女の顔を 覗いた
「あの人 働けないでしょ 可哀想だから」
俺は 恥ずかしく 前を向き ムッとしていた
乞食を 支援する力 彼女より 俺の方が
何倍も 持っていた からだ

う〜ん あなたが 自然に 支援できるには
「規範を外付けする」という手立てが ある
クリスチャンになったり
マルクス主義者に なったりする
そうやって 倫理やイデオロギーを
外側から装着すると
「困窮している人は ためらわず 救わねば ならない」
ということが 内発的な気分として 湧いてこなくても
外形的な規範が そうすることを 命じてくれる
手を差し伸べることが「自然」に できる
ただ そういう「外付けされた惻隠の心」には
あなたが 気付いたように いろいろ 無理が ある
キリスト教は もともと
弱者への 愛から始まった宗教ですが
「神の名において」多くの人を 殺してしまった
マルクス主義も
弱者に対する 愛や不正に対する 怒りから始まった
政治思想ですけれど
「マルクス主義の名において」
これまでに たくさんの人が 殺された
外付けされた「強い惻隠の心」は
善意に 基づくもので あるが ゆえに
ブレーキが 利かない
いったん 暴走し始めると 制御できない
それよりは 個人的な 動機で
内発的な 必然性が あって
じわじわと 湧き出す「弱い惻隠の心」の 方が
世界に及ぼす被害は 少ないんじゃないかと 思う
より普遍性の高い「外付けの惻隠の心」人権で あれば
そうした問題も 発生しない気が する
宗教やイデオロギーに 比べれば
「人権」は 普遍的 変わるものでは ないからね
全人類に 人権教育を行っていくようなことも
必要なのでは ないか と 考えられるのですが・・
人権教育ね・・
あなたが 言う「教育」と いうのは
学校教育を 想定されていると 思いますが
人権というような 概念は
学校で 教科として 教えられるものでは ない
人の生き方や 道徳は
他人が 教えるものでは なく
自ら 学び取るものでしょう
ほとんどの人は 育った環境において
支配的な 行動規範に 従います
「家風」の 影響は 大きい
それは この年になると しみじみ感じる
子どもの頃に 身近にいた人の 立ちふるまいや
ふと口にした言葉から 自分たちは 深く影響される
もし 自分の「家風」が 気に入らないから
そこから 離脱しようと 望むとしたら
家風を リセットする必要が ある
師匠につくとか 親分に従うとか
影響力の強い人と 行動を 共にするとかして
別の「刷り込み」を する必要が ある
だから「道徳」の 教科化は ナンセンス
教師自身が きわだって 道徳的な人で
その 日常の所作から おのずと
「道徳的に 生きるとは どういうことか」
それが にじみ出て
子どもたちを 感化するのであれば ともかく
教師自身が 特に 道徳的な人では ないという 場合には
道徳なんか 教えようが ないでしょう
家庭環境と学歴と交際範囲で
人間の一生が ほとんど 決定されるという
そんな「格差」の概念が 一般化した
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「人に頼る 甘える」を 異常に恐れる 日本人の病理
素直に 他人の好意を 信じることが できないから
すねたり ひねくれたり ふてくされたり
被害者意識を高め 狂人となり 恐ろしい事件を 起こす
皮肉なことに
日本が「甘え」から「自立」を目指す社会に
変貌している際に 欧米では
相互依存の重要性が 強調されるように なっていた
感情のコントロールと同時に重視される 共感能力
「相互に依存する」ことが 人間関係を 豊かにする
暴君型のリーダーシップは 古く
共感型リーダーこそ あるべき姿だと している
ひとりの能力では 限界が あるからだ
助け合える点は 助け合って 成果を高める
人に頼ることや 救いを 求めることが
日本社会では とてもハードルの 高いものになった
勇気を振り絞って 人に頼り救いを 求めることで
展望が 開けることも ある
「頼る勇気」が あれば
メンタル面で 健康度が 上がって
判断・決断も 健全なものになる
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「中途半端な ことなら しないほうが ましだ」
そう言われる 潔癖な人が います
けれど 人間が できることは 多かれ 少なかれ
中途半端なもの
人が できることは ひとり 一人違う
器の大きさが みな 違うんですから
普通に していれば いいんですよ
あなたが ソマリアに行って 活動していると
同じように 途上国支援に乗り出す若者が 後に 続く
フィリピンに 日本人が 置き去りにした母子を
支援している人たちがいる 難しき 困難な仕事だ
最初に 誰かが やると
「あ! こういうことを やっても いいんだ」
「こういうことが できるんだ」と 思える
誰も やらないと
それは「やっては いけないこと」
「やろうとしても できないこと」だと
何となく 思ってしまう
あなたの 活動によって
ソマリアに行って 人道支援を することは
日本人の若者でも やっていい こととして
社会的に 認知されるわけで
そういうふうに 道を切り開くことは
それだけで たいした達成だと 思う
個人として できることには
おのずと 限界がある
だから「機嫌よくやっている」こと
どんな困難な事業で あっても
当事者が 機嫌よく ニコニコ やっていると
人々は それに ひきつけられる
逆に どんな立派な支援事業でも
暗い顔で 不機嫌に 実践していたら
広がりは 持てない
あなたの場合は 命を 大事にすることですね
とにかく 長生きすること 長生きして
自分の支援事業に 加わってくる人に
ミッションを つないでゆく
長生きするのって けっこう大事な 仕事ですよ
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「共感」という 言葉は 使い方次第では 危険な言葉
ふだんは べったりと つるんでいて
あらゆることについて 共感し合っているような
「ふりをする」ことを 強要されていないか
「演技的な共感」が 強制されれば
どんな話題でも「そうそうそう」と うなずき合って
ハイタッチするような 無邪気な人間関係に
実際は 当事者たちも 疲れているんじゃないか
今の若い人たちは
理解も共感も絶した他者とでも 共同的に活動して
『よきもの』を 創造することは 可能
そういうことを たぶん 知らないんだと思う
誰からも そんなこと 教わったことが ないから
だから 何か 集団的に行うときには
100%の共感と理解が 前提になければならない
そう 思い込んでいる
でも そんなこと
あり得るはずが ないじゃないですか!
共感よりも 重要なのは
「こういうルールでやりましょう」という
外形的な契約を 取り決めて きちんと守ること
たいへんな 仕事みたいだけれど
約束しちゃった以上
守らないと という考えを する方が
関係としては ずっと健全だと 思う
「共感」とか「理解」は
協動する上の 絶対条件じゃ ない
結婚だってそうですよ
結婚が 万全の共感と理解の上に
築かれるべきだ ということに なったら
一度 行き違いがあって
「気持ちが 通じない」と 思ったら
すぐに 離婚しなければ いけなくなる
そんなこと できるはずが ないじゃ ないですか!
誰にも「共感しない自由」が ある
ならば 法や行政の枠組みで ルールを作って
皆が それに沿って 行動するしかない
しかし 法というものは
あくまで 最低限度の規範ですから
全ての社会問題を カバーできるわけでも なく
市民レベルでの 合意形成が 必要になってくる
それを うまく進められる鍵が どこに あるのか?
合意形成という 言葉の理解が
ちょっとずれているような 気が します
合意形成というのを
みんなが 満足し みんなが 納得するような
結論に到達することだと 定義していたら
そんなものが 成り立つはずが ありません
人の意見は 全員が違って 当たり前なんです
その正否を 同じレベルで 言い合っても
対立するしか ない
合意形成というのは 実践的には
「みんなが 同じくらいに 不満足な解を出す」
ということ?
正否とは レベルが 違う
「不満足の度合いを そろえる」という
きわめて計量的で 散文的な 手続き
「大岡裁き」に「三方一両損」が ある
あれが 合意形成です
二人が 対立しているとして
そこに 第三者が 出てきて
二人に譲歩を求める 調停案を 提示する
そのときに
その調停者も 同じだけの損害を
引き受けなければ いけない
「損をかぶる必要が ない人が 損をかぶる」
それで 初めて 対立しているものたちが
「いったい 自分たちは 何のために
これほど 争っていたのか・・」と 我に返る
Win-Winという言葉は
誰が 作ったのかは わからないけれど
そんなことは ありえ ない
話が まとまるのは“Lose-Lose-Lose”
三者が 必要なんです
合意形成のための条件は 二つあって
一つは
「三人が みんな同じように 不満足な解」で あること
もう一つは
「調停者は 損をする必要が ないのに
当事者たちと 同じくらいの損を かぶること」
だから よくできた 合意形成というのは
全員の 舌打ちとともに 終わる
あなたが できることを あなたは していればいい
それが どこかで 誰かにとって
大きく 人生が変わる きっかけに なるかもしれない
ならないかも しれない
なっても分からない それで いいと思う
だから あなたも
自分が 周りを どうにか変えなくちゃ・・
と 気負う必要は なく
もっと 気楽に構えていて いいと思いますよ
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寅さんは いつか 物分かりのよい 中年の旅人になった
寅さんの言葉の数々は 同時に 年齢を重ねた
ファンの座右の銘の位置を 占めるに 至った
寅さんが 甥っ子 満男の後見人の役割を 果たす
シリーズ終盤では 喜劇では あるが
寅さんは 人生の教師のよう
高校生になっている 満男に
「人間は 何のために 生きてるのかな」と 問われ
「難しいこと聞くなァ 何と言うかな
あ〜 生まれてきて よかったなあって 思うことが
何べんか あるじゃない そのために 人間って
生きてんじゃ ねえのか」
人間のありようを わかりやすい言葉で 言っている
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毎日見ているのは 隣家に望む 一本のヤシの木
そこに ハトかな 鳥の巣があって
家を出る時と戻った時には 必ず 目がいってしまう
ヤシの葉が 増えたり 逆に 枯れて垂れ下がったり
近所の子が 実を取ったり
毎日 同じ場所から 毎日 同じものを 見てるんだけど
必ず 変化がある 一本のヤシの木に
ちゃんと鳥が 暮らしている あ いいな
これだけで 十分なんだけど なって 思いながら 見てる
忘れられない景色は やっぱり 海の中かな
腕時計は しないし 家に時計を 置いていない
嫌な音や つまらない音は 一切 耳に入ってこない
音楽はよく聴く 音楽って 現実を 忘れさせてくれる
人と食べるのが好き 食事って 楽しい時間
誰かと一緒に おいしいねって 言いながら 食べたいし
そんな時間を 共有できる 大切な人が いるのも大事
タバコも 酒も飲みますよ
毎日たくさん飲めば 重くなってしまうけど
絶対に ダメなんて 面白くない
海から上がった時とか 飲みたいじゃ ないですか!








