□□■─────────────────────■□□
           
ダバオ通信  ヤン爺のラストライフ・ダバオ
              Last Life Shift In Davao Philippines
     
            フィリピン社会に戸惑う ダバオ隠居物語
                  「団塊 百年の孤独 老いの抗い」  
□□■─────────────────────■□□

べなければ 死ぬ
黙っていて 料理が 供される 訳は ない
独り暮らしの 台所

料理は ありあわせの材料との 対話
何より 頭で考えるより 先に 手や鼻が
いろんな感覚が 勝手に 動きだす

「体の素直さ」が 意識を 引っ張ってくれる
躁鬱(そううつ)病で 苦労する 自分
「“死にたい” とは 時々 思っていたのだが
   そう感じてしまうことの 原因に
   料理をしていないことが あったのでは ないか」



 

料理は あれこれ 決めつけない
いつも どこか緩んでいる
だから 偶然が 巻き起こる



 

夕食を終えて テラスに出た
あ! 声が自然に出た
顔が 東の空を仰いだ瞬間  星が流れた
一瞬 だったから 祈る事もできない
でも うれしかった

お昼に 袋麺のラーメンを 食べることが 増えた
何しろテレビで 毎朝 毎朝 めんを作り 
試食する場面を 見せつけられるの だから
NHK連続テレビ小説「まんぷく」

50年代に 

即席ラーメンを 発明した夫婦の 実話 
「お湯をかければ 食べられる ラーメン」
商品開発を めざす男 萬平
庭に建てた小屋 研究室で 寝食忘れ 試作錯誤
そして 萬平 即席ラーメンを ついに 完成させる

早速 試食した萬平の息子・源が
「萬平と福子で まんぷくラーメン」と 名付け
立花家は 幸せに包まれる

フィリピンでも 即席麺は 日常食
スーパーの即席麺売り場は 華やかで 壮観 
お湯だけ あれば 食べられる
なにより 安くて 軽くて そして 日持ちする 
世界の難民 貧しい人の 命を 救ってきた

即席麺 生みの親 
たいへんな発明家だ 社会奉仕家の夫婦

この夫婦を 見れば 自分は 何しに 
この世に 生まれてきたのかと 情けない

ごきげんよう 
みなさんの心と躰 お変わりありませんか
ヤン爺です 今日も ダバオにいます
過去の yahooブログのアドレスは 以下です 

https://blogs.yahoo.co.jp/konobukonobu2000/18642110.html  
■□■□■──────────────────────

して 翌時代 60年代 

今より ずっとイカしてた!イカれてた
団塊世代「若い頃の文化」は 華やかだった

団塊世代 人口が 最も多く
「超高齢化国家 日本の厄介な旧世代」と
ネガティブなイメージに とらえられているが



 

団塊達が 若い頃の文化は 
今より よほど希望が持て 自由で 
ハツラツとした 明るい雰囲気に 包まれていた

団塊人のバイブルだった 雑誌「平凡パンチ」
東京五輪の1964年 我々の青年期に 大ヒット
この雑誌を きっかけに 広まった文化は 数知れない
服装や髪型に気を使い 車を乗り回すこと 西洋音楽
自由恋愛 フリーセックス 米国 英国 欧州文化に憧れていた

若者たちは 汚い新宿から
ハイセンスな 原宿 渋谷に流れ 遊び場を変えていた
■□■□■──────────────────────

FM放送開始 大阪万博 日本中が 浮かれていた
就きたい仕事に 就ける時代でも あった
70年に就職した 会社の本社は 浜松にあった 

配属された 直営の小売店は 
4階建ての自社ビルで 銀座七丁目にあった
銀座通りの 端っこ 人通りは 少ない
歩行者天国が 始って 休日は 賑やかになった
銀巴里や 天ぷらの天国は 隣のビルで
千疋屋 資生堂パーラーは 向いの ビルで 

その様子が よく見えた

音楽産業の店で 客は 金持ちか有名人
クレカなど まだ 無い時代だから
10〜30万の その日の 買い物ともなれば
つけ(掛け売り)で 客は 買い物を していた
VIPな客は 店に金を預けておき そこから支払っていた

客の売り掛けは 嘱託のオバさんが 回収していた
 

各売り場の主任は 業界で その名が 知れる 専門家 

転勤も無く 売り場の顔 番頭だった

客が 店員に チップを出す 習慣もあった
客からは 大店の丁稚扱いだったの だろう
上司は タクシーチケットというものを 持っていた
大時代的な職場 銀座から 自分の仕事が 始った

新入社員は 杉並区にある 
社員寮に放り込まれ そこからの 通勤だった
結婚すれば 借り上げ社宅の賃料を 会社が 負担した

昼間は 退職した警官2名が 店内を巡回した

社員には 順番で 宿直当番が 有り 
2名で 夜間の店の警戒をした

 

 

月に一度 商品の棚卸し残業が 有る
近くの料理店で 残業食事をとる 無論 会社払い
10時頃 業務が終わる 店裏口の道路には 
外車で 黒塗りのハイヤーが びっしりと 並び
方面別に 相乗りして 帰宅した 
女子社員は 全員が 良家の娘 会社も気を使って いた
■□■□■──────────────────────

ぐに 酒を飲む仲間が できた 
銀座では 気安く飲めないので
集まる居酒屋は 神田のガード下だった

初任給 2万数千円 そんな金で
どうやって 毎晩 飲んでいたのだろう?
どうしていたものか 不思議な思いが する

神田のガード下の居酒屋は 養老の滝など
たばこは150円で 店には 煙霞が かかっていた
店内に入ると ムッと 燗酒の匂いが 充満して
客たちが 交わす お喋りの喧噪で 注文も 大声
ビールは 200円 ヤキトリ1本30円だったか
贅沢品であった ニワトリのモツ鍋なんか
300円程度したんじゃ ないか 

いまでは もう 記憶は 定かではない

飲み代は 仲間と 持ちつ 持たれつ
ともかく 毎晩 飲んだくれていた

キャバレーなど 全盛だったが オジさんたちの店

そんな 風潮だったので 足を 踏み入れなかった



 

飲んだ帰りに タクシーなど とんでもない
初乗り120円だったから とても 払えない
終電に間に合うように 切り上げていた

時代は 所得倍増計画の恩恵を受け
給料は 驚くほどの昇給を していった

マクドナルドが 銀座にオープンし
続いて セブンイレブン が 開店
時代の転換点 真っただ中に いた

ロッキード事件 田中角栄首相が逮捕

国民は 暗雲とした 気持ちに成った

在職4年で 本社勤務を 命ぜられた
そこは 企業城下町 名刺を出せば
平社員でも つけで 酒が 飲めた

気楽な サラリーマン家業だった

その時は ストレスや将来への不安など 微塵もなかった

バブルが 弾けるなんて 誰も 想像していなかった
■□■□■──────────────────────

70〜80年代 新しい時代を 迎えても 
親が してきたように 生きることが
当たり前と されていた

今は 別の生き方が 可視化されやすい時代
都市にいても 地方にいても
「こういう世界って あるんだ」と
わかるように なってきた

もっと どんどん 変わっていけば いい
若い人が 意見を言ったり 制度を変え整えたり
何かを決める立場に なっていったら いい

年をとった偉い人が ずっと上にいると
いくら下から要望や いいアイデアが 出てきても
「自分たちが 若いころは こうだった」と
つぶされちゃう そういう構造って
会社でも 家族でも 一族でも 同じ

平成三十年で 描いたのは 閉塞した社会
昭和の現実には 自分の青年期の希望が 
重なっていた 生意気に 力も発揮できた

平成30年間「何もしなかった日本」に 
何やってたんだ! 憤りを 隠せない
今 矛先は 団塊ジュニアたちに 向けられる
革新者は 誰一人 生まれていなかった

東京の楽しさは 多様性
いろんな人が いるから
少しくらい変わっていても 目立たない

大阪の いいところは いい加減の ほど良さ
よく言えば 発想の自由

街の個性は それぞれで
それらを 活かすことで「楽しい社会」が 生まれる
楽しい社会じゃないと だめです
楽しくないと 経済が 回っていかないんです

「強い国」の 明治日本 
「安全な国」の 戦後日本に続き
これからの日本を「どうやって 楽しい社会に するか」
これからの人に 託されている
■□■□■──────────────────────

ーマンショックから 10年 
リストラは 今も終わらず 引きずっている

自分も 当たり前に リストラされた 
50歳後半で 海を渡り 移住 それから 15年以上 
フィリピン ダバオで 自負する独居生活を 送ってきた

マニラ セブなら 知っているが
ダバオ? 知らない ねえ!ミンダナオ島 
テロ警戒地域じゃないの やばいよ やばい
そんな事いう人が ほとんど

ダバオは 
ミンダナオ地方全域を 対象とした 戒厳令下に ある
だが 多くの人が 治安面の不安は 
マニラと比べても 小さいと 言っている
暮らしやすく 働きやすい街だと思う

ダバオといえば 何をイメージしますか?
何も 誰も知らない地 バカな事 聞くもんじゃない

「ハワイ」と聞けば 心を躍らせ
トロピカルなモノを 思い浮かべる
ワイキキのビーチや
ホノルルのショッピングモール
サーフィンやシュノーケリングなどの
アクティビティー
ロコモコやパンケーキといった名物

フィリピン観光局が 新しく
「発見 ダバオ」というプロジェクトを 始めた
ダバオにまつわる あらゆるモノを
まだ知られていない ダバオの魅力を
伝えるというもの

ダバオの魅力 発見 何を見つけた?



 

ダバオから 目の前のサマール島
内湾ならではの 穏やかな海は どこまでも透明
それを 縁取るような 南国らしいジャングル
みずみずしく つやめくグリーン
そんな 手付かずの自然に 
溶け込むように 建てられたリゾートが ある 



 

ダバオに息づく自然と共生し
伝統文化を尊重し守るを コンセプトに 造られた

リゾートは 持続可能性と ぜいたくの両立に 

取り組んでいる



 

すばらしいのは フルーツで

 


 

完熟してから収穫されたフルーツの
果実やジュースは 他では 味わえない



 

体験のお勧めは スパ
「苦手な運動は ストレスになるから
   運動の代わりになる 好きなこと」
マッサージという 自分を 甘やかす答え
マッサージを 経験する
心身の調和した トリートメント



 

ダバオへの旅は 自然と共生しつつ
無理や不便を 押し付けられることなく
贅沢で快適な滞在を 楽しめる
■□■□■──────────────────────

前からの 日本人移民の街 ダバオ
当時 婚姻した末裔 日本人の血を引く人は 多い
ダバオに 思いを 寄せるとは いうものの
なにもかもアルようで なにもかもナイ街

むしろ 目の前で起きる いろいろな問題
直面しては 考える そんな 日々のダバオ生活

『アケミ』という名の娼婦を 探していた
ダウンタウンで 見つけることは 叶えられなかった
『アケミ』とは 女たちの 性と生の匿名性
ダークサイトを流転する 無名性の謂い



 

消そうとする『浄化』の論理 今でも
消えない痛みが せめぎ合い こだまする街
『アンダーグラウンド』とは また 地獄
ダバオの影を歩き 堕ちて生きた 今も
女たちの身体が 語る声を 聴き取る
哀しみと 傷で書かれた ダバオ『闇の奥』

西洋の 植民地主義の暗黒面を 描いた
1979年 フランシス・フォード・コッポラは
舞台設定を ベトナム戦争に変えて
『地獄の黙示録』として 映画化した

撮影は フィリピンでも 行われた
久しぶりに この名作を DVDで観た

ダバオの街中で 不穏な空気を 感じない
以前は 寛いでいる バーに 警官や軍人が 
突然 査察に入って来ただけで 緊張した
今 彼らは 以前に比べて
ずっと 信頼できる存在に なっている



 

ダバオは 暮らしやすくも なった
停電や断水は ほぼ 皆無だし
そこら中にあった サリサリストア
(なんでも売る 小さな雑貨店)は
セブンイレブンなどの コンビニに変貌し
日本食レストランも あちら こちらにあり
味も さほど日本と遜色がない そんな店すら ある

うんざりする 車の渋滞を 除けば
どこも かしこも 賑わっていて
行きつけのライブハウスも 満員

「コンビニが 冷蔵庫」・・

アーバンすぎるセリフ いつか そうなるだろう
■□■□■──────────────────────

明と繁栄は 大きく アジアに
東南アジアに移っているのは 間違いない 
米国と中国の争いは 投資や貿易で
フィリピンに 漁夫の利も もたらす

ドゥテルテ大統領(72)は その強権と暴言から
欧米諸国のマスコミや 政府から 批判されてきた
BBCは 麻薬戦争による 人権無視を非難し
それは イギリス政府にも 反映され
戦略物質や武器とみられる 輸出について
規制を かけられている

フィリピンの友人は 全員が 全員
ドゥテルテを 強く支持している
自分には 彼らの気持ちが わかる



 

腐敗と犯罪の巣であった頃の フィリピンを知る
治安が悪く 残忍な麻薬カルテルが 跋扈する

長期間 スペインの植民地だった 国の政府が
腐敗を助長するのでは なく
本気で 取り締まることは めったにない
だから この機会を 逃す手は ない

貧困からの脱出 GDP成長率は
12年から18年にかけて 毎年6%を 越えている

雇用を生む 海外からの投資も 翳りが ない
国外からの直接投資の 純流入額が
17年に 1兆1086億円と過去最高を 更新

それどころか
USニューズ&ワールド・レポート誌が
世銀のデータを基に 評価・分析したところ
2018年に 世界で投資するのに 最も適した国
第一は フィリピンだ とした

眉唾だとしても 大変な評価だ!

これは ミンダナオのような
民族紛争の激しい島を除いた
マニラ圏に 限ったことだろう

格差や 貧困 テロ 犯罪は あるとしても
東南アジアの病人と 言われたころに
訪れている自分や 50代~70代の層で
フィリピン駐在経験のある人々には
今のマニラは 別世界に映る と思う

「マニラは 安全だし 東京と変わらない」
それは 言い過ぎ まだ 不穏で危険な都市
貧困から抜け出すには もう少し 時間が かかる
 
就任から 今日まで
ドゥテルテ大統領 数々の暴言を 吐き
マスコミを 賑わした
暴言は 新聞を売り テレビの視聴率をあげる 
プレゼントだった

「カトリックの神父の90%は ゲイである」
教会は 麻薬戦争に 反対の立場だった

「カトリック神父など 殺してしまえ」

「美しい女性がいる限り レイプは なくならない」

高校時代に メイドの部屋に忍び入って
パンティの中に手を入れて 触ったことがある
メイドが 目覚めたので 部屋を出た

女性団体は 大統領に相応しくないとして
辞職を求めているし 反対派の中には
精神鑑定を受けたほうが いいと 訴えるものも いる
■□■□■──────────────────────
麻薬との戦いは 続いている

「シャブの精製所を発見・検挙 マニラ市内 サンフアン」

「シャブ警官らを 逮捕」

「シャブに 今後 かかわりそうな政府高官を 更迭」

ドゥテルテ大統領は フィリピンの救世主と なれるか

誕生日に ベッサメムーチョを 歌うところなど
メキシコ スペインの影響は いまだに濃い
大統領は 自分と同年代だが タフだ

 

天皇陛下への 尊敬と親愛も 深い大統領 

陛下とも 直接お会いしている

マニラ近郊 タガイタイにて 

麻薬がらみの重大事件は
マニラ港で 発覚した 大量シャブ 
税関の高級官吏や麻薬捜査の警察官が
グルになって 密輸した

355キロの密輸シャブ(4億8000万円相当)が
マグネット式つり上げ機の中から 発見された
一方 マニラ南部のCaviteの倉庫にも
4台のマグネット式つり上げ機が あるとの情報で

つり上げ機は 発見されたが すでに中身のシャブは

取り出されていて 押収できなかった 
5台総計 1775キロ(24億円相当)

もともと 日本が 発明したシャブは
今 中国で製造され マレーシア ベトナム
台湾などを経由して フィリピンに密輸される

まるで アヘン戦争の様相
貪欲国家の実像 中国は フィリピンを シャブ漬けにして 
本気で この国を 乗っ取るつもりだ

ドゥテルテ大統領は 麻薬との戦いを宣言している
犯罪を犯す者 それが 身内ともいえる 政府高官であっても

解雇し 裁判所に送る
かってのフィリピン政府には 見られなかったこと

メキシコの元大統領Pena Nietoが 
麻薬カルテルの親分 Chapo Guzmanから 
何百万ドルの賄賂を 受け取っていたという 報道が あった
ドゥテルテ大統領に関しては 退職後も 
そのような 不名誉な事実は 見つからないに 違いない
■□■□■──────────────────────

日 スペインの血筋を引く女性と
食事をする機会が あった 彼女は こういった

「少し前にも マカティのナイトクラブが 閉鎖されたわ
   薄暗くて そこで ドラッグが 売買されていたの
   ドラックにかかわるお店が 閉められるのは いいことよ
   大統領 もちろん ドゥテルテが いいわ」
   
大統領には こんな逸話が あると 彼女は 話しを 継いだ

ダバオの知事時代には 夜中に変装して
流しの タクシードライバーに なりすましていたの
そのとき 数人の学生が 酔っぱらって 乗ってきた
『こんな夜遅く 何をやっているだ?』と 聞いたら
『飲み歩いている』っていう 答え で
そのまま警察に彼らを連れて行った
そして 電話をかけて 彼らの親を呼んだの
ダバオには『16歳未満の夜9時以降の外出禁止』って
厳しい条例が ある

ドゥテルテが 3期25年も 知事として君臨した
ダバオは まれにある イスラム過激派のテロを 除けば
東京と同じほど 治安のいい街である 誇張では ない

イスラム系住民に 広範な自治を与える
バンサモロ基本法の 是非を問う住民投票が あった

「心配なのは もし 大統領が ドゥテルテから
   他の人に変わったら 元のフィリピンに
   戻ってしまうんじゃないかって ことね」

彼女は やや 不安気に いった

数々の暴言があっても
ドゥテルテ大統領の支持率は 76%
■□■□■──────────────────────

て そんな 安全な街 ダバオで
1人あたり 1000円か 2000円ぐらいの予算で
ちょちょいと 飲み食いしながら
狭い街を 回遊するのが 好きだ

一人でも 連れ立っても

途中で 誰かが 勝手に帰っても 気にしない
好きなように飲む 疲れたら 離脱する
そういう 飲み助の振る舞い方が あって いい

ダバオにいて わかったのは
日本人は まじめすぎで 頑張りすぎだと いうこと
つくづく『自分は 何と 戦っていたのか』と 思った
24時間 戦えますか なんて のぼせあがって 
我に返り『何が 自分の幸せなのか』と 考え
ダバオに 住む事になった

生きるハードルが グッと 低くなった
力を抜いて 楽しく暮らし その“余力”で 
自由を 充実させる

日本では その余力が “悪”と されがち
自らの居場所は 日本だけとは 限らない
柔軟な思考と行動力が これからの時代を 生き抜く
団塊人のカギとも いえるのかも しれない

今ごろ そんなこと 言われても もう 遅いって 
そうかもしれないね
■□■□■──────────────────────

は 人生の後半期に おいて
さまざまな問題点に 直面する
文字どおり 正面から 向かい合う

「人生とは 何か」
「自分の人生に 意味は あったか」
「これから どう生きる」

などの 精神的な自問

だれでもが それらの問いに 直面する

しかし 人生後半の 問題点は
そのような 高尚な 疑問だけではない

「なぜ オシッコが こんなに 近くなる」
「どうして 物事を すぐ忘れる」
「身体的動作が 思うようにいかないのは なぜ 」
「夜中に 眠れないのは どうしてだ?」
あげれば きりがないほどの疑問が 浮かびあがる

 

その答えを 専門家にたずねると
おおむね ひと言で 答えが返ってくる

「加齢のせいです」
 
たしかに その通り かもしれない
しかし ロケットで 月へ着陸したとかいわれる時代に
「加齢ですね」で 済ませるというのは
あまりにも 無責任だろ

科学の進歩という言葉は どこへいったのか
宇宙飛行など どうでもいいから
夜中に尿意で 目覚めないように
してもらえないものかと いつも思う

体力の不調は 心に 大きな影を落とす
人生の意味を 探し求めて 悩む人は
それなりに 幸福なのでは ないか
具体的に 体の各部の不調に 苦しんでいる人々が
それこそ わんさかいる

医学の究極の目的は 病気を 治すことではない
痛みをなくす そのことが 最大の目標だろう
苦痛に のたうち回りながら
10
年 長く生きるくらいなら
快適に 1年 生きたほうが 自分は 有難い
 
人は 自分で願って 生まれてきたわけでは ない
生きることは 大変だ それを 耐え忍んで 生きて
死ぬときに 苦痛にさいなまれつつ 世を去る
なんてことが あってはならないと
ダバオで ひそかに思う

特別なことがない 日常の輝き
日常の風景で迎える 大切な最期