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ダバオ通信 ヤン爺のラストライフ・ダバオ
Last Life Shift In Davao Philippines

フィリピン社会に戸惑う ダバオ隠居物語
「団塊 百年の孤独 老いの抗い」

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定年後の余生を どう送るのか
多くの方が 期待と不安を 抱いている はず
なには ともあれ 健康で勤め上げた事こそ 喜ばしい
それは 誰にでも出来る事では ないからだ そう思う
もはや余生は 消滅したのではないか 巷のささやき
余生 楽し気な言葉 この世の死語に なってしまったのか
社会を退いた 団塊たち 70を 過ぎていた
ようやく「老い」が 表れ 切実な実感に 愕然とする
元気な振りを しているだけ 辛さを 隠している
自らの 定年後の記憶は すでに 曖昧だが
15年以上も前に 初めてダバオ市を 訪れた
フィリピン・マニラでもなく セブでもない
当時 ダバオに滞留する日本人は 僅かだった
退職後 誰にも 時間は たっぷりある
最大の強みは 現役時代には 持てなかった
時間という資産を得て 存分に使えること
体力やおカネは 平等ではないが 時間は平等にある
その前提で 老いの設計をすれば 面白い事が 始る
ダバオ 現地の人々は 不思議がっていた
え! 何をしに来たの? と 死ぬほど聞かれた
日本でも 何をしに行くの? と 死ぬほど聞かれた
散歩だよ 散歩 と 答えておいた
そんな訳ないでしょう と 沢山言われた
確かに 散歩では ないが
どこかへ行くのに 何かをする為じゃないと
行っては いけないという 決まりなど ない
ましてや もう 現役では ない
好きな時間に 好きな方法で
好きな場所で 勝手すれば いい
自分の時間の使い方くらい 自分で決める
ここ ダバオは 何もない場所
行きたくない と 思っていれば 来ていない
行きたいから ダバオに行った
ですが 頭で考えていた ことと
手足を使って 実際に行動に移したのとでは
まったく異なる という こと・・
大きな美術館が あるわけでは なかった
野外劇場での パフォーマンスを 見られる訳でも ない
芝生の公園に ビールを持ち込んで 遊びたいが ない
ここでしか食べられない 特別な料理なども ない
ただ 此処にしかないもの 海と空と人
東京から移住した者に「ダバオ」が くれたもの
青い空と白砂の海 肌をなでる微風 のんびりした時間
そんな環境には 文句の言い様も無い 長居している
南の島の環境に どっぷりと浸かる
「何の為に?」ダバオ と 聞いていた人に すると
その散歩には 意味あったね と 言われるだろうな
どんなもんだい 自分は ほくそ笑んでいた
東京からダバオ
環境を 無理にでも変える事は
自分には とても大きな意味を 持つものだが
意味なんて 後からでも 幾らでも付け足せるし
環境を変えて失敗したら 失敗してよかった と
そう思える選択肢に 後々 変えていくだけで いい話
退職者 すべての人を 十把一絡げに
挑発するには 無理がある 人それぞれ 向き不向き
こちらに移ってきて 大正解なんて 思っちゃいない
南の島 想像される スローな時間が 流れてる
その中では 自分の劣化も ゆるやかにすすむ
ゾンビなジイさんになることを 免れている
清潔にしていれば「おしゃれ」である 必要も ない
生きられれば「幸福」に ならなければと 思う必要も ない
暮らす金があれば 成功したいと 焦る必要も ない
「いやなことを 我慢する」その必要は まったく ない
では 何をすればいいのだろうか
「自分は これから 何をしようか」
それを考え 無為に過ごすしていれば いい
わからないことは いくら考えたところで
「わかりません」と はっきりしてる
老いぼれになれば 元気なわけが ない
自分の体調との兼ね合いが 肝なわけだけど
何も考えず 独り海原を 漂っていれば いい
泳ぐから疲れるのだ 漂っているだけなら
万端 楽でいられる
老いても ラクで 面白く 楽しいが 見つかる
ダバオで「余生」は 死語では なかった
ごきげんよう
みなさんの心と躰 お変わりありませんか
ヤン爺です 今日も ダバオにいます
過去の yahooブログのアドレスは 以下です
https://blogs.yahoo.co.jp/konobukonobu2000/18642110.html
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東京近郊に 終日冷たい雨が降りつづいた 昭和27年11月5日
浅草の老舗高級洋食店「大坂屋」の2階で 祝宴が 催された
店に残された 一枚の写真
主賓は 黒縁の丸眼鏡をかけた 初老の紳士
浅草ロック座の 若い踊り子たちに 囲まれていた
主賓の紳士は 永井荷風 御年73
この2日前 文化勲章を受けた その祝宴だった
稀代の蕩児は 老いてなお意気軒昂
浅草の猥雑を愛し 通いつめていた
芸妓や娼婦ばかりを 相手に
不毛とも称される 愛の遍歴を重ねていた
「僕は 自分のやりたいことは ドンドンやって 楽しむ
楽しんだことは 後で後悔しない」と 自らを肯定した
「どんな女でもいいのだ 私を有頂天にさせてくれるなら
どんな女でも いいのだ」
ここまで 堂々と言う 特異な性格者は 滅多に いない
自分のことを 好きになってくれた 稀有な女の事実
それに対する 感謝が満ちる 女に傾ける 熱量が違う
ダメな部分の無い男を 探してたら 一生なにも掴めない
女が 男のダメに 可愛いげを 感じられるか どうか
心情 スタイルに どこまでも こだわる 文人 荷風
この男の ちょっと ばかっぽいところに 惚れている
自分も 荷風の歳に迫っていて 考えさせられる
荷風の感情に触れれば 引きずり込まれ
今までの 自分の人生に なかったもの
荷風の人生に 出会うことが
そのまま 自分の何かに 繋がっていく
荷風は 自分で 自分への答えを 出していた
個人主義を 貫いて生きた荷風 人間の肯定
自分も 70まで 生きてきた
これからの 人生の味というものは
与えられた時間内で 自分のしたいことをする
それだけのこと 荷風から 教えられた
酒を飲みたい奴は 飲めば いいし
数字の計算だけをしたい奴は それをすれば いい
金を貯めたくって仕方のない御仁は それをすれば いい
荷風は その分 孤独を引き受け 噛みしめている
『断腸亭日乗』に こんな記述が あった
「今にして 思い返せば
わが身に 定まる妻のなかりしも 幸の一なり
妻なければ 子孫も なし
子孫なきが 故に いつ死にても 気が楽にて
心残りのすること なし」
「死ぬときは 独り」という 覚悟だろう
孫や 子供たちに囲まれて 暮している人が 居ても
結局 人間は 独り 死ぬ時に誰かを
一緒に連れていくわけには いかない
「人生50年」昭和という時代に あっては
荷風は すでに 世を去っていても いい歳だった
それまでの人生を さまざまな 人間関係に もまれて生き
最晩年に 達していた
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「孤独」とは 独りでいることでは ない
人びとの間に 生きて「他人と 動じない」
そうした暮らしに 孤独と言う言葉を 当てはめている
人間関係の中で 真の「孤独」を 自覚するもの
群れから離れて生きる「孤独」は「孤立」と 言う
真に「孤独」を 愛する人は
多くの友人を持ち 社会と深く関わっている
「孤独」は 大勢の人々と 共にある時に こそ
はっきりと感じ取っている 感覚
他人とちがう自分 たった一人の自分
それを はっきりと 見極めている
生身の人間と 接するだけが
「個独」を 感じるときでは ない
テレビを見ていても
新聞を読んでいても
ラジオを聞いていても
ふと「なにかが ちがう」と 感じるとき
その「なにかが ちがう」という 感覚こそが
「孤独」への 出発点
人びとと 一緒にいるときに 感じる異和感
「なにかが ちがう」という 感覚 ・・
それを 飲み込むのか 吐き出すのか
他人とちがう自分 自分独りの感覚
そこに「孤独」の根 拠りどころが ある
美しい陶器のような孤独が 荷風には あった
荷風は 日常生活 その水準を 極端に下げていた
偽悪ぶる手法で 孤独を描いているのでは ないか
下司の勘繰りによる 疑いから 生じるものだが
そんな邪推を 言えば 品性を 疑われるだろうか
「群れて 集まって はしゃぐ」
「群れること」は 決して無駄では ない
多くの体験を共有した 友人たちと語り合えば
「これで また しばらく生きてい ける」と 思うだろうし
腹の底から 凛々と 老いを生きる勇気が 湧いてくるはず
日本人は 同質を好み
異質なものを 避けたがる
他者への想像力が 欠けていれば
他者を 理解する努力を しなくなる
認識と実際は 少し違っているだろう
荷風の 孤独で優し気な 外面は ともかく
内面の 弱気な心情を 笑顔でかき消していた・・
そんな 想像を 巡らしている
「孤独と 生きる」精神的な 自立
「孤独で 生きる」自分とつながる
誰かと 会ったり 話したり 行動したりすること
それが 目的では なく それを通じて
「自分の中に生まれた 新しい自分」と「つながる」
自分が 自分自身を理解し 認めるために
「人とのつながり」が ある
「孤独」の意味を 考えることで
人生後半の生き方が 見えてくるような 気もする
自分も「孤独」を 考えても いい年に なっていた
孤独の手がかり 荷風は 残してくれた
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浅草での祝宴から 7年目となる 昭和34年4月30日
千葉県市川市の荷風の自宅を
近所に住む 手伝いの老婦が 訪れた
すると 奥の6畳間で
蒲団から 半身を乗り出すようにして
荷風が倒れていた すでに 息は なかった
死因は 胃潰瘍による 吐血で引き起こされた 心臓発作
残された 身の回り品といえば
鍋2つと茶碗 湯飲み 包丁 七輪
洋服2着と靴3足 洋傘1本
森鴎外 幸田露伴の全集に ゾラなどのフランス原書
小さな経机が わずかに 文人らしさを 示していた
質朴の極みと 言っていい
ですが けっして 貧窮暮らしの中の 死ではない
こうした持ち物とは 対照的に
愛用のボストン・バッグの中には 現金31万円と
総額2300万円余りにのぼる 預金通帳が あった
(当時の 公務員の初任給は 1万円)
「偏奇」を 貫いた 孤独の死
他人に 干渉もしない代わり 干渉されるのも大嫌い
卓越した 個人主義に裏付けられた 生を貫徹して
荷風は 逝った
おそらく悔いは 少なかったろう
赤の他人のこと 知りようも 無いのだけれど・・
誇るべき 文化勲章は と いえば
無造作に 新聞にくるまれ
押し入れの中に 放り込んであったという
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人生 老いてますます楽し
天下一品の名文で『歓楽』『東綺譚』などを発表
一世を風靡した 文学者 荷風
その老いの姿は かなりユニーク
親類縁者に頼らず 作家仲間と群れることも なく
ケチ 女好きなどと 陰口を 叩かれながら
79年の生涯を たった一人で 生き抜いた
死の前日まで
42年間に わたって 書き続けられた日記
『断腸亭日乗』には 作家として
一人の男としての本音が 満ちあふれている
明治 大正 昭和にわたる 社会風俗 性風俗の
貴重な記録とも なっている
ただ 人間の出来ることは
その無限の徂来をつづける 日と月との下で
それぞれに さまざまな思いで
刻々に生きてゆくこと 乃至は 刻々に死んで行くことだけ
日はめぐり 時だけは 過ぎる
生きるのも 死ぬのも なかなかに ままならぬ
荷風の 人生のたたみかた それを 考えている
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荷風は 浅草の蕎麦処「尾張屋」を 愛した
通い詰め 毎回 同じ席に座った
毎日 食べ続けたことで 有名になった「柏なんばん」
今日まで変わらない 柔らかいささみは あっさりとして
毎日でも 飽きない味に 仕上がっていると言う
ダバオで 自分が 自炊できる 鶏料理は 少ない
「蒸し鶏のショウガとネギ風味」は たまに作る
シンガポールに滞在した折に 教えて貰い 覚えた一品
いつも こってりした味のものを 頼んでいたよなぁ
何気ない生活の中で ふっと 何かが引き金で 甦る記憶
シンガポールの思い出 若かったから よく食べた
ネギ油蒸し鶏とエビワンタン麺は 合わせ技の定食?
現地の食いしん坊に連れられ 初めて訪れた店
その日から ずっと お決まりになった2品
めったに チャーハンを 頼むことは ないのに
待っている間に 運ばれていくのを
いくつも 目にしたからか
この店の チャーハンを 食べてみたくなった
珍しく注文 あとは 空芯菜とカイランの炒め物
蒸し鶏を除く 4品が 一気に運ばれてきた
エビワンタンは みるからに ぷりっぷり
こういう おいしそうなものを 目にすると
いままで これを 知らなかった ことで
損を してきた 気分になった
あまりにワンタンに 目が 注がれていたか
連れが 小さな器をもらって 分けてくれた
少し遅れてやってきた
蒸し鶏のお皿を 真ん中にどーんと置いて
いざ 手を合わせ いただきます!
さて 何から 手をつけよう やっぱり蒸し鶏か
蒸し鶏と油淋鶏(揚げ鶏の甘酢ネギソースがけ)が
選択肢として あったなら 自分は 油淋鶏を選ぶ
鶏のから揚げが 大好きなのだ
だから 連れが こうやって 勧めてくれなければ
一生 この店の蒸し鶏も 食べないまま 終わったろう
ありがたい思いで 蒸し鶏を ひと口食べると
こんな店で と言ったら なんだが しっかりした肉質の鶏で
思わず まじまじと 食べかけの肉を 見てしまった
おろし生姜のたっぷり入った ごま油のたれを 少しつけ
また ひと口 これは チャーハンじゃ なかったなぁ~
シンプルなおいしさで 白いごはんに 青菜炒め
そこに この蒸し鶏を乗せたら きっと 完璧だった
心の中で すまん!と 思いつつ
チャーハンを よそう
パラっと しっとりが 同居した
具とお米のバランスも 良い
こちらも ちゃんと おいしいものだった
そして エビワンタン 食べてみると
ぷりっぷりじゃなくて もうそれは ぶりっぶりと
言いたくなる くらいで 見事
食べ応えのある麺も 蝦子入りの細麺で
こりゃ こん次も また頼むだろうなぁ
連れが 先におなかがいっぱいになり
少しずつ お皿に残っていたものを
自分が 全部平らげた
シンガポール滞在では 食の記憶だけが 鮮明
うなるほど うまかったからね
写真に残した 料理の品々を 見ていた





