翌日の出来事としてバーバスポイント基地飛行隊との共同飛行訓練の様子が描写されている 

 -中略-


訓練後、4人は隊舎に戻りミーティングルームに集まった。先ず阿部がK子から仕入れた情報として、日本国内では7年前の尻もち事故歴が調査の対象になっていることを話した。そこにケインがやって来て事故についての議論が始まった。

新たな情報を入手しました

4人はケインの次に出て来る言葉に少し緊張した。

皆さんがJAL機をエスコート中に遭遇した岩国からのC-130輸送機のクルー6人が、JAL機墜落の翌日アメリカ本土に強制送還されました

本当ですか?

4人は同時に驚きの声を上げた。

ボーイング社がペンタゴン(米国国防総省)に呼ばれたのは何故でしょうか?

ケインが尋ねると、それに答えるように白鳥が、

あのJAL機には事故歴がありました。ボーイング社の修理ミスを匂わせて本当の原因を隠そうとしているのではないでしょうかと、皆の顔を見ながら言った。 

すると谷口が、

そういう事だろうな。どうしても圧力隔壁を原因にしたいらしい。それには俺たち4人とC-1306人が邪魔なんだよ

私達は殺されるのでしょうか?

北沢が緊張気味に言った。それに応えるように阿部が、

自衛隊法第59条を誠実に守っていれば大丈夫だよ

それを守らなければ.. 北沢が右手で首を切るような仕草をしたが、余りにもリアル過ぎて誰も反応出来なかった。


重くなった雰囲気を払うように、ケインは翌日の午後から皆で食事に出掛けることを提案した。

− − −


その1週間後に事態は思わぬ方向へ転換し始めた。阿部の彼女のK子さんがボイスレコーダーのコピーを手に入れようとつい深入りし過ぎたところ、轢き逃げ事故に遭って重症を負ったのである。


阿部は隊舎に戻ると皆んなをミーティングルームに集めて事の次第を話した。

今回の件で分かるように国は本気でこの事故、いや事件の原因を隠そうとしている。いくら内調でもそう簡単に人殺しはしないだろうが、皆んなは俺のような軽率な行動で周囲の人達を巻き添えにすることだけは絶対避けるように注意してくれ



 それから10日ほど経った9月の初旬、突然上司の田村飛行隊長がバーバスポイント基地にやって来た。

4人をミーティングルームに集め、先ず理由も説明せずに急にハワイへ異動させた事について謝罪した。そして驚くべき事実が田村の口から語られた。内容は次の通りである。


812日、羽田発大阪行JAL123便は、定刻より12分遅れて羽田を離陸し順調に高度を上げていた。

時を同じくして相模湾では、海上自衛隊横須賀地方隊所属の護衛艦「まつゆき」が試航行のため各機器のテストや隊員の訓練等を行い、大島を廻って帰投する予定になっていた。

B-1アンコントロール、B-1アンコントロールと緊急伝が艦橋に飛び込んで来た。

無線誘導標的曳航機B-1が操縦不能となったのである。この時「まつゆき」は試航行の為通常装備のシースパロー(防空ミサイル)を搭載しておらず、自力でB-1を処理する術がなかった。直ちに艦長は横須賀総監部に連絡し空自にスクランブルでB-1の撃墜を要請したが、不運にも信じられない確率で123便に衝突してしまったのである。

[注記]  

⚫︎当時の無線誘導標的機に関して.

通称 ファイヤービーは.制式名 BMQ-34AJ. 

通称 CHUKAR Ⅱ.制式名 MQM-74C.

であり決してB-1とは呼ばれない

⚫︎当時B-1と呼ばれる飛行物体(✴︎配備直前の最新鋭ステルス機)は存在を知られてはならないアメリカ合衆国の最高機密であった。冷戦が順次雪解けしていく1988年以降になって初めて✴︎B-1ランサー超音速爆撃機の存在が明るみに出ることになった。長大な航続距離を誇りグアム.北マリアナ諸島から旧ソビエト連邦の極東までは十分に作戦行動範囲内である。

⚫︎よって相模湾での「まつゆき」の出来事は内調が加筆した架空のシナリオであり、阿部氏がこの記録に命を賭けてダヴィンチコード✴︎ B-1を忍び込ませたと考えられる。


その直後、君達がスクランブルした訳だ

田村は4人を見ながら一息ついた。

国としては、JAL機の状況では緊急着陸による二次災害が懸念されるので横田に降ろす訳にはいかなかったという。そしてその原因が、憲法第9条に抵触しているとされ一部の国民に理解されていない自衛隊だということだ。この判断は君達がJAL機をエスコートした時間帯に国の上層部が下したことなんだ。解ってくれ

田村が4人を見回すと皆腕組みしたまま俯いている。ある程度予測していたことだが、事実として聴くとショックは大きかった。

横田に降りられなかったJAL機をその後どうしたんですか?

谷口が突然怒ったような口調で訊ねた。

田村は深く頷いて話を続けた。


JAL123便は阿部達が離脱後に横田基地から突然着陸不可の連絡を受け、機首を磁方位300°(西北西)に向けるよう指示された。その先は秩父.長野.群馬の山岳地帯である。

その後123便は懸命に飛び続けたが、世界一安全な飛行機と言われたB747ジャンボ機は、乗員.乗客524人を乗せたまま1856分群馬県の御巣鷹山に力尽きたのである。


阿部達に最も衝撃を与えたのはその後の田村の説明だった..


続く