墜落現場の位置は、当日夜間の早い時間帯から絞り込まれていた


日本航空123便がレーダーから消息を絶ってから、いち早く米軍、自衛隊が航空機を飛ばして捜索に当たり、墜落現場上空を旋回するなどして横田TACAN、入間TACANで方位と距離を測定し、墜落現場の特定を急いだ。直ちに米軍輸送機C-130、空自百里基地.305飛行隊所属のF4-EJが、また同空自ヘリコプターV-107が捜索にあたった。


最も早い情報は、

1919分、炎上する日航機をいち早く発見した、米軍C-130の旋回位置を、横田TACANで測定した磁方位305°、距離35マイル(海里)であった(解説書.P1820)

これを座標にしたものが、

峯岡山レーダーから機影が消失した地点、北緯36°02′ .東経138°41′とほぼ一致、実際の墜落現場から北北東へ約3kmと誤差の少ないものであった。(国土地理院.地図で計測)


この情報がどれ程度共有されたのかは不詳だが、少なくとも当日のJNNニュースで映った羽田オペレーションセンターに特設された記者会見室には、ボード上にこの座標が記されていた


また、翌朝の読売新聞には、

航空自衛隊によると、墜落現場は、北緯362分、東経13841分の長野、群馬県境の秩父山系。緯度、経度からすると群馬県多野郡上野村の御巣鷹山付近に当たる

と記載されており、少なくともこの位置情報は当日深夜までには広く共有されていたことになる。


陸路隊にとって約3kmの誤差がどれ程の支障になるかは想像に難く無いが、いつまで経っても位置情報が錯綜する混乱は避けられたはずだと残念に思う次第である。


因みに事故調査報告書の記載によると、

捜索活動を行った結果、813439分、日航機の残骸を発見し、墜落現場を確認した」とある。(事故調.P26)

明らかに遅すぎである


⚫︎追記

FNNニュース内の21時17分頃の報道

[18時59頃. 123便の機影は. 横田から303°. 約34マイル(63km)の地点で羽田のレーダーから消えた国土地理院の地図に示す.


()8月12日 当日.羽田オペレーションセンター内 掲示(JNNニュース)


(下) 1985年8月13日 読売新聞 朝刊