墜落の全容(前編)

  

       


1985812日、18:12′ 日本航空123便は定刻より数分遅れて羽田を離陸し伊丹へ向かった。高度7200mまで上昇し、18:24′35″ 相模湾伊豆沖で巡航の水平飛行に移ろうとするちょうどその時、右斜め後方から最新鋭ステルス機が超音速で垂直尾翼の直上を掠め飛ぶアクシデントに見舞われた。


これにより生じた強力な斜め衝撃波により、123便は垂直尾翼の方向舵を含む6割とテールコーン、及び作動油圧を失って操縦性が極めて悪化する事態に陥った。直ちに機長の指示でトランスポンダにスコーク7700がセットされた。


これより遡ること約2分、18:22′22″頃に、操縦士達は前方を見慣れぬ形の機影が超音速で通過するのを目視しており、直後に機体が上下に揺さぶられる出来事があった。 DFDR上、垂直加速度と昇降率にこの記録が残っている

これは何かあるなとクルー達は緊張度を高めていたが、その後間もなくのアクシデントであった。


操縦困難を極めた同機は、出来ることなら即折り返して大島経由で羽田への帰還を希望したが操縦ままならず、18:27′ 緊急事態を宣言して右旋回をしながら静岡県静岡市付近から本土上空を北上した。


事態を受けたアメリカ太平洋軍は当該最高幹部将官の命令で自衛隊を直ちに米軍の指揮下に置いた。ちなみに横田基地と横須賀.7艦隊司令部はアメリカ太平洋軍の配下である。


命により先ず18:28 航空自衛隊百里基地 305飛行隊所属のF4-EJ(ファントム 2機がアラート発進して123便を追い、間もなくレーダーで機影を確認した。後方から損傷の程度を確認し、編隊長が高濱機長に状況を伝えた頃には既に山梨県上空の横田空域に深く侵入していた。

そして18:38′ 頃、丁度岩国の米軍基地から横田へ向かっていたC-130が合流したところでエスコートの引き継ぎとなり自衛隊機は帰還させられたのである。


自衛隊機は帰還の際、横田空域の中央.南部の要衝を通過することは回避し、北回りで群馬県西部から長野県に抜けて空域を離脱した。18:40頃、その編隊は群馬県吾妻郡旧東村で陸自隊員に目撃されている


.....そしてその後、123便は機体後部の損壊によって生じた重大な操縦困難を、卓越した技量と対応力により徐々に克服しつつあり、C-130に誘導されながらも羽田への帰還を決して諦めてはいなかった。

原因が判ってしまった自衛隊出身の高濱機長は、横田へ誘導されることが何を意味するのかをよく理解していたからである。


原因となったB-1ランサー戦略爆撃機は中型の最新鋭ステルス機である。長期間のステルス性能の開発を経て、特殊な材質から成る可変後退翼を持ち、機体全体に極秘のRAMコーティング(電波吸収素材)が施されていた。当時の最高ランクの軍事機密であり、存在しないはずの飛行機であった。

実戦配備直前であり、マリアナ諸島の米空軍基地から飛来して帰還する極秘作戦訓練中のアクシデントだったのである。敵地攻撃を想定した訓練なら、退避時は領空を出るまで全速である


123便にその痕跡が残っていれば只事では済まされない。当時は米ソ冷戦下の一触即発という危機的な情勢であった。極東の矢面でその狭間に生きる日本国にとっては、同盟国の軍事的最高機密の露呈が即国家の存亡に関わる繊細な時期であった。         

          

墜落の全容(後編)へ続く



DFDR: 18:22′22″518:22′25″7 (3.2秒間)

18:24′35″異常事態発生から遡ること2分13秒.

123便は局地的な乱気流を受けたと推定する。