絵画教室では主に静物の
デッサンを描いた。
例えば水の入った花瓶やレンガ、球体…。
僕はとにかく描いた。
絵が得意で小学生の頃は褒められ、真似されることが当たり前だった。
でもここでは違った。
ひとつひとつの箇所で
注意をされた。
いや、アドバイスを受けた。

気分はよくないが確かに
その通り描いてみると、
よくなる。

描いて、
修正、
完成して、
次のページへ…。

一日に何人もの
おじいちゃんおばちゃんが
入れ替わり立ち替わり
ここには入ってきた。

僕のデッサンを見て、
話しかけてくる人、
何も言わないでいく人、
アドバイスしてくる人、
様々な人がこの小さなアトリエに
存在していた。

みな何のために
絵を描いているのだろう。
風景もないこの暗い小さなアトリエで
どうして風景の絵を描き続けるのだろう。

少し僕は不安になった。
今は絵を描く大学へ入る事が目標だが、その先にあるものはなんだろう。

絵ってなんなんだろう?
無くても生きていけるものじゃないのか。そんな、ことはない。

そんな雑念がハエのように頭の中に増殖しては、ひとつひとつを握り潰しては一枚の絵を描き上げていった。

そんな日を二ヶ月間、僕の人生にコピペし続けた。

そして受験まで一ヶ月を切った頃、
この事を初めて両親に伝えることになる。
編入学試験を受けよう。
そう思った次の日、
僕は町の片隅にひっそりとある
小さな絵画教室を見つけ、
そこのドアをノックした。

薄暗く、変な匂いのする
教室に入ると、
おじぃさんやおばぁさんが
油絵具で風景画を描いていた。

キャンバスとキャンバスの間からは、
病院の話やどこのスーパーが安いとか、そんな言葉が飛び交っていた。

僕はその言葉に当たらないように、
頭を低くして奥にいるオーナーの出で立ちをした女性に話しかけた。

「あの、デッサン教えてほしいんですけど…。」

そのオーナーは柔らかい笑顔で
「もちろん、いいですよ」と答えてくれた。

「試験が、二ヶ月後にあるんです。
大学入試のデッサン。」

オーナーはその笑顔を崩さずに、
頑張ってみましょうか。と
言ってくれた。

するとひとりの大きな男性が小走りに僕らのところへ来て
「受験用のデッサン??
経験は?
予備校は行ってた?
何回目の受験?


少し顔を歪めて尋ねてきた。
僕は現状を言葉少なく答えた。

その男性はさらに顔をゆがめて、
何か考えていた。
「ここは見ての通り美大受験用の予備校ではないからね。合格の保証はできないけど、デッサンを教えることはできる。それでもいい?」

「はい」

僕はこの男性に何を言われても
「はい」と答えただろう。
だってそれ以外選択肢はなかったから。

「がんばってくださいね」
オーナーは変わらない笑顔で行った。

僕は次の日から、
この教室に通い始めた。

受験まで残り二ヶ月…。
夏休みも終わり、
デザインやアートの専門学校の
ナビーゲーターになれるんじゃないかと思うくらい、多くの学校を知り特徴を把握していた。
まるで旅行のパンフレットを見て、旅行に行った気分になってしまうような。そんな感じだったのかもしれない。
何もやってないのに、
何かやり遂げた気になっていた。

二学期が始まり、
久々の友達とも顔を合わす。
その中にいたひとりの友人と学食でお昼を食べた。

あれ?
このシーンって…。

僕は一年前に彼が、僕に大学の編入学試験の話をしてきたことを久しぶりに思い出した。

学校帰りまた、本屋や漫画喫茶で調べた。どうやら11月に試験があるようだ。

今度は様々な合格者の作品を手で覆い隠すことで、具体的な試験内容まで僕のふたつの目がたどり着いた。

デッサン
実技(文章を読んで自由に表現)
面接

デッサンはやったことないし
どこまで描けるかわからないけど、
自由に表現か。
こっちは技術力というより、
オリジナリティとかかもしれない。

いけるかも!

なぜか変な自信があった。

この時はデッサンで
苦労するとは思っていなかったからかもしれない。

そして僕は、
次の日から大学に行かなくなった。
9月から入れる専門学校もあるし、
もちろん来年の春からでもいい。
まずは大学を辞めよう!

学校案内が届いてから
僕の頭の中はすでに専門学校に通っているイメージが出来上がり、
テープが擦り切れる程、
繰り返し夢描いていた。

なんて楽しそうな学校ばかりなんだ!
自分は一年間ダラダラと文句を言いながら時間をなげすてていた。
バイトもろくにせず、
二人分の親の4本の脛を両手で鷲掴みにして噛り付いていただけだった。

ただ、甘えや堕落からの脱出というよりは、つまらない日々からの脱出の意味の方がはるかに大きかった。

銀座で観た個展を引き金に、
大分軌道がずれてしまったけれど、
あの時よりも瞳は輝いていた。
…と思う。

大学2年の夏休みがお迎えにきて、
僕はさらにふかふかなベッドの上で横になることになる。
ただ、去年と違うのは、両脇に学校案内の資料を山ほど抱えている事だった。

しかし、結論から言うと僕は専門学校に通うことはなかった。
この夏休み明けに拾ったひとつのチャンスが、僕の人生を大きく変えることになるとは、この時は思いもしなかった。
全国で数カ所実施している
美術系大学の編入試験を知り、
調べた結果、合格者の絵のレベルの高さに愕然とし、秒殺で飽きらめた翌日、気が付けば僕はまた本屋に足を運んでいた。

何かまだあるはずだ。
まだ自分が知らないだけだ。
とにかく今の窮屈で退屈な世界を
なんとしてでも出たかったのと、
夢中になるものを見つけたかった。

その時、あるデザイン雑誌の広告に、
デザイン専門学校が掲載されていた。

なるほど、これだ!
こっちがあったんだ!

僕はすぐに家に戻り、
インターネットでデザインやアニメ、美術やゲームの専門学校のホームページを見ては、資料請求をし続けた。


それから数日後、
家には分厚い学校案内資料が
次から次へと届いた。
それを一日に何度も受け取る母親はさすがに聞いてきた。

専門学校行きたいの?

僕は答えた。
わからないよ。
だけど、今のままじゃだめなんだ。
と…。

母はそれ以上何も聞かなかった。

僕は学校へ行かずに
それらの資料を読んでは、
夢を膨らませた。
アニメ映画もいい。
グラフィックデザインもいい。
イラストレーターもいい。
と、学科の説明を読む度に
夢をカチカチと頭の中で切り替えいた。

この時、既に大学2年の夏休み目前だった。
それから僕は絵の楽しさにはまった。

商売人の家でうまれ、
ひとりの時間も多かった。
そんな時はいつも、チラシの裏や紙に絵を描き続けていた。

あの頃をふと思い出しながら、
僕は目に入るものを描き、
その日感じた事を描き、
頭の中で、
夢の中で、
描き続けた。

それからまた大学の夏休みが終わった頃、僕は以前、ともだちが勧めてきた編入学のことをふと思い出した。

すぐに本屋へ走り調べた。
インターネットでも調べた。

すると全国に数カ所、
編入学試験を実施している大学があった。

しかし、資格条件や過去の入試合格者の作品を見て落胆した。

僕にはこんな絵、描けない…。

編入の熱い気持ちは数日で冷めた。いや、凍って砕いて捨てた。

型にはまった絵を習ってまで、
美大にいく気はない。
忘れよう…。


それでも今の環境から右半身リタイヤしていた僕は、何かを決断をしなければならなかった。

学校の単位も落としていたし、
何よりも割れた砂時計からサラサラと時間が流れ落ちているのを、
何もしないで見ている事は出来なかった。

そう思っていた頃、
また新たな道を見つけた。
今思えばイラストの教室に入ったメリットは色々な画材を使えた事だった。

それ以外は
好きに絵を描いている。
構図があーだこーだとかの
いわゆる絵の基礎を習うでもなく、
とにかく描いていた。

その時に、僕はパステルという
画材と出会う。
小学生の頃から絵の具は図工で使ってきたけれど、ずっと筆に対して不満をもっていた。
手と紙の間に筆が入ることで、
頭のイメージを表現できないと子どもながら思っていたのだ。
技術のなさといえばそれまでだが、

いずれにしても、このパステルが
今もそして、始めて就職活動するときも助けてくれる事になるとは、この時は考えもしなかった。

ただ出会った時に、
指で直接描けるこのツールに
魅了された事は今でも忘れない。

そして、このパステルを右手にして、僕は地下からビルの11階へ昇ることになる。
教科書の落書きをほめられ、
頭に焼き付けられた絵を見て、
次第に僕の心はなんとなく絵の世界が気になり始め、日々覗き込む事が増えてきた。

その証拠に教科書の表紙にしていた落書きをやめ、手帳のメモ部分に描くようになっていた。

そして本屋へ通っては、
画集を手にとることが増えていた。

そんなある大学2年の梅雨の頃、
僕はイラスト雑誌でイラスト教室の広告と出会い、見学することにした。

そこに行くと、
小さい部屋にたくさんの主婦が
イラストを黙々と描いていた。

普段、渋谷の交差点のように学校の講義では、私語と私語が飛び交っている状況に慣れていた僕にとって、この光景は衝撃的だった。

そしてさっそく申し込んでしまった。
いつもの僕だったら男がいないで主婦だけ、しかもわざわざ知らない世界にお金を払って入る事など絶対にありえないはずだった。

確か入学金30万くらいだったと思う。
面倒くさがり屋で怠け者の僕はバイトもろくにやってなく、稼ぎはなかったけど、貯金でなんとかなると思った。

そんなことよりも、
不満に取り憑かれながら受ける大学の講義よりも、この空間がよっぽど魅力的で新鮮だった。

僕は翌日から、大学に行かずにその教室に行くようになった。
中学から漠然と持っていた夢、
ミュージシャン。

それを叶える時間も必要で入った大学だったけど、メンバーも固定せず、大学内のライブに出る程度だった。

作詞作曲は続けて、
たくさんの曲たちがうまれていたけど、それよりも早く時間の方がどんどん溢れ出ていった。

世の中はすでに夏休み。
バイトを細々やって、彼女とデートする日々が当たり前だし、とても楽だった。

そんなあるデートの日、
背伸びをして銀座を散策していた日、
僕の心を焼き付ける事件が起きた。

ランチをしてどこに行くでもなく歩いていると、ギャラリーの看板があり、なんとなく入ってみた。

地下にあるそこは暗く、
壁に掛かった絵にだけ、照明があたっていた。美術館とは少し違う雰囲気。
その絵には女性とネズミのようなキャラクターが描かれており、暗い色彩だけど、カラフルで嫌いでもなく、好きでもない。そんな印象を持った。

10分もしないうちにそのギャラリーを出た。
そして、いつものデートに戻った。
しかし、何故か次第にあの絵が気になり始めた。
そして気づいた時には頭の中でその絵を模写して、脳みその中でギャラリーを開催して、改めて観覧している僕がいた。

僕は何かを見つけた気がした。
ずっと探していた何か。
忘れていた何か。
ガラ空きの電車の中で、
どこに、座っていいかもわからなかった僕の心に、座ってみたいと思える席が見つかった。
ここなら落ち着ける、
景色が楽しめるかもそれない席。

そんな感覚を大学2年の夏に
プレゼントされたのだった。
大学に入って二度目の春を迎えた。
一年過ごしてみて、
残りの三年が天気予報よりも高い確率で予報できそうだった。

新しい講義のテキストは
僕にとってまた真っさらなキャンバスを与えられたのと同じだった。相変わらず落書きをして、友達とカラオケに行って、お酒を飲んで日々を消費していた。

そんなループする日々の中、ひとりの友達が僕の落書きを見て褒めてくれた。
「すげーなぁ、やっぱうまいなぁ」
僕はいつものように、そうかな…という顔をして微笑んだ。
「才能あるんじゃん?」
僕はその言葉にはっとした。

才能…か…。

僕の手は止まった…。
そして、
頭の中で落書きの続きを描き始めた。