新年初っ端から 死の話とは非常識なと思われた
読者もおられたでしょうが
新年こそが 死を語るにふさわしいと紫は思います
人は いずれは死ぬ・・
その時を潔く迎えるため 己が人生の辞書の表紙に
「死」の一文字を刻み込んで いつ何時その時が来ても
慌てないように 若い時から新たな年の始まる日に
想いをめぐらせるべきなのです
その死に方は 病死・老衰のような自然死・尊厳死・
孤独死~など さまざまです
死ぬその時が己の宿命運命だったのだとジタバタせずに
あきらめるしかないのだと・・
いずれの死に方も 背後には大いなる存在の
ご意趣が働いているのではと思うのだが・・
死というのは「己が己を殺す」ということなのだ
私は そのような解釈をしています
人間にとっての最大の尊厳は「死」であり
その「迎え方」であると思う
ゆえに ドラマで演じる俳優に原作者・脚本家たちが
『いかなる理由があっても 人を殺しちゃあいけない』
と言わせるのだろう
ならば 無念な死の迎え方をさせられた
人間の尊厳はどうなるのか・・
たとえその迎え方の背後に 大いなる存在のご意趣が
あったとしても 私は従うことができない。
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「親と子が死に直面した時 それぞれの立場によって
どのような選択があるのか」・・
現実はあるか否か分からないが 死を・人の心を考える
参考としていただければと・・
↓
人の心の中には もう一つのココロがあって
そこには得体のしれない魔物が棲んでいる
二人あるいは数人で登山して遭難した 届は出して
あるからやがては救助がある しかし発見されるかは
分からない 飲食物も底をついた 救助の気配もない
絶体絶命だ
それまでは たがいに協力し助け合ってきたが
もうそれも限界だ
「死にたくない生きて帰りたい」己が思うことは
相手も同じだ では~どうする・・
生きて帰るためには たがいに殺し合い勝ち残った者が
殺された者の肉を喰らって血を啜ってでも
自分は死にたくない・・
もう一つのココロに棲む魔物が目覚めてくる
その時 家族ならば・・となると 私にも分からない
人は「己だけは生きたい己が一番かわいい」のです
それが人間の持つ心の本質本能であり たとえ
血の色が同じ家族であっても例外はないのかもしれない
あるとすれば その本質本能を超越した 善の心の
存在があって 子が幼く親が若ければ子の肉を喰らって
あるいは 親が中高年であれば子に親の肉を喰わせて
子を生き延びらせようとするかもしれない・・
生きのびた親・子が どのような思いで生き続けるのか
あるいは 結局は死を選択するようになるのか
それは別としても・・。
みなさん いかがですか・・
今まで家族・知り合いと死について語ることがなかった
ならば お坊さんの専売特許としないで話し合う時間を
作って見られたら・・。
終わります。 参考までに
↓
「人間 いずれは死ぬ」
http://ameblo.jp/b012/entry-11593141795.html