佛教で言えば(空)を体感するという事だね
禅問答のようだけど 言い方を変えるとね・・
自我を捨てるという事だな・・
自我があるというのは欲があるという事で・・
(空)ではない
(空)を体感する~ではなく
体感したいと思うこと自体が 自我であり欲だと思う
欲を捨てれば (空)も体感できるし
世の中の隠れたものも見えてくる
ホントの自分の事も分かってくる・・
剣道・空手・合気道~といった武道の達人は
意識せずとも そのような境地に入れるようだね
じゃあ佛教でいうところの 自我を捨てる
という事は・・
学者が言うところの 自我=自分というのなら
自分の存在は どうなるのか・・
『俺は いったい誰なんだ』・・と なってくる
紫流の考えだけど『主体・客体』という言葉で言えば
『欲を捨てて悟れということは』・・
『人生においての目的・職業とか職場での役職や周り
からの評価とか 極端だけど性別・年齢さえも
言ってみれば そこに欲であり主体があって
紫という人間は従で客体なんだ』とね
イイやそうではない・・
『その欲=主体を捨てる というか手放すことによって
従であり客体であった紫も 同時に消滅する
そのあとは 従であり客体だった紫が主体と
なるように自分をつくりあげていくことによって
なりたいと思っている紫になる』・・
現実世界で解釈すると『悟り』というのは そのような
ことなのかなぁ~とも思うんだよね
自分を見失うことはなく 主体になった自分を
客体である現実世界で 活かすように~ということ
なのかもしれないね・・