双極症の親(父か母かはぼかすことにする)が先日入院した。
そう状態の兆候は、今年2月くらいからあり、そう状態に注意するように、主治医に処方箋を変えるように言うように再三に渡り注意したのだが、本人は、言うことを聞かなくなった。
そう状態には、家族としては、話すよりも、手紙やSMSの方が伝わるかもしれない、ということで、今までのそう状態での失敗や被害妄想や誇大妄想について、羅列したSMSを送り、絶交をほのめかして、最後の忠告として、そう状態に対処するように伝え、後は姉妹にフォローを頼んだが、結局、何も対応をしなかったようで、警察沙汰の近所トラブルを起こし、私と家族で、薬を飲ませて、主治医を受診させ、近くのホテルで連泊させながら、テンションが下がるのを待って、主治医が入院を説得した経緯である。
親本人が70代後半で、実家で一人暮らしのこともあって、放置するような形になったし、主治医への連絡を本人に任せており、主治医への連絡先を把握していなかったのが、それが、円滑な対応の妨げになった。
本格的なそう状態が7,8年ぶりということや高齢になってきたこともあって、危機感が弱くなっていた部分はあった。
親のそう状態で幻覚は、従来はっきりとしたものはなかったと記憶しているが、今回は誤認が激しいもので、妄想の支離滅裂度も、予想以上だった。
しばらく、今回の件の整理をするために、書いていくことにするが、そう状態と幸福について、考えさせられたのは、そう状態にある人(私の場合は親である)は、危険や周囲の迷惑を心配にする家族の助言に耳を貸さず、リスクの高い行為や迷惑行為を続け、失敗をすることになる訳であるが、鬱になって、その点を、他人の忠告を聞かなかったことを、心底後悔したり、家族への迷惑を反省するかというと、そうではないように思う(北杜夫などもご令嬢の「パパは楽しい躁うつ病」によると、そういう後悔はしないと言っていた)。
この点は、幸福を考える上で、重要な気がする。
結果というものは、成功か失敗しかない、という観点で言えば、そう状態での判断は、失敗でしかないし、「あの時、家族の忠告を聞いておけばよかった」ということになるはずである。
しかし、双極障害の人は、そのような後悔はしないようである。「ちょっとやりすぎた」的な後悔はあるが、慚愧に堪えないというような後悔はない。むしろ、やりたいようにやり切った感はある。
これは、人間が一番後悔するのは、自分が当初選びたいと思っていた選択を取らずに、他人の忠告を聞いて、他の選択肢をとった後に、先に自分が選んでいた選択肢の方が好ましい結果となることが分かった場合に、「あの時、人の意見を聞かずに、自分の意思を貫くべきであった」という後悔の方が多い。
塞翁が馬というが、人生において、どのようなことが成功がなのか(金を儲けることがよいのか、地位を得ることがよいのか、友人が多いの方がよいのか)、というのは、結局分からないが、自分の判断を貫いたこと、は、たとえ失敗に終わっても、一定の満足感や納得感があるということなんだろう、とは思う。
これは、今日的言えば、AIによる妥当な結論に従っていれば、幸せになれるのか、という問題でもあり、すべて他者やAIが決めるような人生に幸福を感じられるのか、という問題になってくるとは思う。