安倍政権は河野談話の轍を踏むな
池田信夫
ユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界遺産委員会は7月5日、「明治日本の産業革命遺産」を全会一致で世界文化遺産に登録することを決めたが、日本側が「1940年代に朝鮮人がその意思に反して連れて来られ、厳しい環境で働かされた」と異例のコメントを行ない、「犠牲者を記憶にとどめる措置」を約束した。
韓国政府は当初、日本の登録対象が「朝鮮人が強制労働させられた施設だ」として登録に反対したが、いったん日韓外相会談で歩み寄った。ところが4日になって「強制労働」問題をまた持ち出し、採択が1日延長された。これは小さな問題のように見えるが、徴用工の扱いで妥協することは慰安婦より大きな外交問題を引き起こすおそれがある。
32万人の朝鮮人労働者は慰安婦よりはるかに大きな問題
そもそも今回の登録対象は1910年の韓国併合以前にできた製鉄・造船・炭鉱などの施設であり、そこで朝鮮人が労働したことは確認されていない。仮にそういう事実があったとしても、1945年まで朝鮮半島は日本の領土であり、彼らは外国から連行されたのではなく日本人として労働したのである。
戦時中に政府が労働者を動員する方法は募集か徴用であり、後者は一種の強制だが、これは朝鮮人に限った話ではない。戦時中は国家総動員法にもとづいて国民徴用令が出され、616万人が軍需工場などに徴用された。厚生省によれば、そのうち朝鮮人はわずか245人(終戦時)だった。
これは戦時労務動員計画で「半島人の徴用は避けること」という方針が出され、「官斡旋」による募集という形式がとられたことによる。これは朝鮮人ブローカーが募集して国内の職場に連れて行くものだが、誇大広告が多く、特に炭鉱では労働条件が悪いために脱走する労働者が絶えなかった。
秋田県の花岡鉱山では、800人の中国人労働者が暴動を起こして400人以上が殺された。この花岡事件については被害者が損害賠償訴訟を起こし、2000年に和解が成立して鹿島が5億円を支払った。その労働実態は「強制労働」と言ってよい劣悪なものだったが、それを強制していたのは民間業者だから、国は謝罪も賠償もしていない。
官斡旋は事実上の国による動員とも言えるので、それを含めると終戦の段階で(国民徴用令と官斡旋で)動員された朝鮮人は32万人以上だった(厚生省の推定)。慰安婦の賠償はたかだか数千万円だが、32万人の遺族が300万円ずつ賠償を請求すると1兆円を超える。これが日韓請求権問題の「本丸」である。
徴用工の請求権は日韓条約で解決ずみ
外交的には、徴用工の問題は日韓基本条約で解決ずみだ。未払い賃金などについては、1965年の日韓基本条約で日本政府が韓国政府に「経済支援」を行ない、韓国政府が労働者に支払いを行なうことになっており、これによって「請求権問題は完全かつ最終的に解決した」と条約に明記されている。
しかし韓国政府は、1980年代になって一部の歴史家が朝鮮人労働者の動員や徴用を「強制連行」と名づけ、その総数は100万人にのぼると主張した。これを受けて韓国政府は「強制連行は日韓条約のときは知られていなかった問題だから新たな請求権が発生する」と主張した。
それに便乗して出てきたのが慰安婦問題だったが、今となってはそれがフィクションであることは明らかで、韓国政府も問題にしなくなった。その代わりに出てきたのが徴用工問題で、こっちは慰安婦のような根も葉もない話ではない。
今年6月、戦時中に朝鮮半島から徴用され、三菱重工業の名古屋の軍需工場で働かされたと主張する韓国人女性や遺族計5人が損害賠償を求めた訴訟の控訴審で、韓国の光州高裁は原告の個人請求権を認めた一審判決を支持し、三菱に約1億ウォン(約1100万円)を支払うよう命じた。
韓国では、大法院(最高裁)が2012年に元徴用工の請求権は「消滅していない」とする判断を示し、地裁、高裁で日本企業に対する原告勝訴の判決が相次いでいる。日本政府が徴用工について国家責任を認めるような発言は、こうした動きに利用されかねない。
河野談話の失敗を繰り返すな
今回の日韓両国の一連の対応を見ていると、1993年の河野談話を思い出す。あのときも最初はそれほど大事件になるとは思わず、外務省は「政府の関与」を認めて遺憾の意を表明すればすむと考えていた。
ところが韓国政府が粘り、「強制という意味の表現があれば賠償は求めない」と言ってきたため、外務省は河野談話に、慰安婦が「本人の意思に反して集められた事例」に「官憲等が直接加担」したという玉虫色の表現を入れた。これを韓国が「国が強制連行した」と解釈して国家賠償を求めてきたのだ。
今回の世界遺産でも気になるのは、外務省が「多くの朝鮮人が意に反して苛酷な労働条件で強制的に労働させられたことを理解させる措置」を取ると約束したことだ。これはユネスコの議事録では、次のようになっている。
Japan is prepared to take measures that allow an understanding that there were a large number of Koreans and others who were brought against their will and forced to work under harsh conditions in the 1940s at some of the sites
菅官房長官はこれを「強制労働ではない」と説明したが、"forced to work"という表現は強制労働と解釈されてもしょうがない。
それを「理解させる措置」とは具体的に何かはっきりしないが、一部の報道では「情報センターをつくる」とも伝えられている。
徴用工についての歴史的な資料を集めた施設が想定されているのかもしれないが、これは問題を再燃させるおそれが強い。村山内閣のつくった「アジア女性基金」では関連資料を集めたウェブサイトをつくったが、これが日本の「有罪の証拠」と世界に受け止められた。
海外メディアも含めて、日韓以外の国民は慰安婦にも徴用工にも関心をもっていないので、ニュースの見出しぐらいしか読まない。
外務省がいくら高度な「霞が関文学」を駆使して「徴用工は強制労働ではない」と国内向けに説明しても、例えば朝鮮日報は「世界遺産対立:日本、国際社会で初めて強制労働認める」と大見出しを掲げた。
これから三菱重工のような徴用工訴訟が、韓国で頻発するおそれが強い。単なる民間の娼婦だった慰安婦とは異なり、徴用工の一部は軍と雇用関係にあったので、政府の責任が追及される可能性もある。
外交レベルでは合意が成立しても、韓国マスコミや一般大衆の感情が暴走し始めると、政府にもコントロールがきかなくなり、結局は韓国政府が前言を翻して新たな賠償を求める――それが河野談話の教訓である。
安倍政権がその轍を踏まないことを願わずにはいられない。