昨年二月、共産党から除名されたことは、私の人生を激しく揺さぶるものでした。除名されることが、その人の人生を左右するほどの重みを持つのは、共産党ならではだと思います。共産党に入ることは、自分の一生をかけた決断である点で、他の政党に入るのとはかなり異なるものだからです。
話は著書からは外れるが、松竹氏の意見陳述はこのようにはじまる。「共産党に入ることは、自分の一生をかけた決断である」――というのは、ほとんどの党員が肯定するだろう。もちろん、私自身もそうだった。ただ、その後三年から四年ほどで党に対する思いは相対化した。党にも誤りや弱点があるものとして受けとめ、自分としては異なる意見もあるし、いわば反主流派ないし改革派として自身を位置づけた。
もし私が松竹氏の立場だったら、せいせいしたと思うような気がするが、それでも党に対する評価を含めた自分の政治的見解を変えることはないだろう。松竹氏が除名処分の不当性を訴えて裁判を通じて党への復帰を目指すのは、党史上初めてのことである。しかし、これまで除名された者の多くは、政治的見解を変えてしまった。その見本として兵本達吉氏を取りあげよう。
私は一九九八(平成十)年八月、日本共産党から、「警察のスパイ」あるいは「警察のスパイになりつつある」という青天の霹靂というか、荒唐無稽というか、私には全く理解できない理由で、突如として除名された。党から除名されると、当然のことながら、党員としての制約はなくなるわけである。……
また、これまで、こんな本を読んではまずいと言われていた本を自由に読むことができるようになった。ハイデガーも読んだ。仏教の本も読んだ。もう誰も「観念論」の本を読んでいるといって非難する人がいないからだ。私は頭から除名されて、人間として解放され、随分と世界が広くなった。(『戦後共産党秘史』63ページ)
「これまで、こんな本を読んではまずいと言われていた本を自由に読むことができるようになった」という告白には唖然とした。この態度はいったい何なんだろう? その著書の節々から感じられるのは兵本氏が〝洗脳〟から目覚めたと自覚しているらしいということである。党指導部が発表する政治的見解や宣伝を一から十まで鵜呑みにして信じてきたのに騙されていた――というわけだ。だが、そもそも党規約に、共産党系書籍以外は読んではならないという条項はない。兵本氏自身が勝手に党指導部を盲信し狂信者になっていただけのことである。この間の松竹問題やハラスメント問題での指導部の対応、多くの党機関の反応は、党の専従者諸君がかつての兵本氏のような人で占められていることを意味するのだろう。
管理人(2024/7/7)