暇な時、読んで
「80点コロッケ」と言う本の中の特別偏、日本とトルコの架け橋を読んだ。
トルコの人たちが、なんで日本人に親切なんだろう・・・。
その真実(理由)を知った時
こんな事があったんだ! ちょっといい話だったので書きました。
和歌山県東牟婁郡串本町。本州最南端の町。
明治23年(1890年)9月16日夜の事。
大型の台風により1隻の大型船が座礁して、爆発!
海に投げ出された一人の船員が、灯台守に助けをもとめた。
ずぶ濡れで衣服もボロボロのその男性の外見で、灯台守は、海難事故に遭った外国人であることはすぐに分かった。
どこの国の人か聞きましたが、言葉が通じません。
その男性は、自分の国の国旗を指さした。
トルコの国旗でした。 それを見た灯台守は、新聞で見た「トルコの親善使節団を乗せた船が横浜に入港し、大歓迎を受けた」という記事を思い出した。
まさか・・・
座礁した船は、重さ2334トン全長46メートルの大型船「エルトゥールル号」だったのです。
エルトゥールル号には、600人余りの人が乗船していました。
救出には、沢山の人手が必要!灯台守は一番近い、樫野の村に向かって走った。
島には、まだ電灯もない時代。灯台守は激しい雨の中、真っ暗な道を走り、村の人たちに助けを求めました。
村の人たちが灯台に着くと、岸壁の下には船の瓦礫といっしょに多くの船員が打ち上げられていた。
もう既に命を落としてしまった人が大半を占める中、かすかに意識がある人が何人かいました。
長時間、冷たい海と雨にさらされていたため、体温はどんどん下がっていきました。
激しい雨風の為、火を焚くこともできない。
そこで村の人たちは裸になり、自らの体温で船員たちを温めたのです。
言葉が通じないとわかっていながら、必死にエールを送った。一人でも助けたい一心で。
そして、69名がいきを吹き返した。
樫野の村は50ほどの小さな集落、自分たちの食料も大変な貧しい生活、看病も限界がある。
しかし村のひとは、非常食として飼っていた鶏を料理して、トルコの人たちに食べさせました。自分たちの最後の食料です。
異国の地で災難にあいながら必死で生きようとがんばるトルコの人たちをたすける為に。
村の人たちの献身的な活動のおかげで、69名の尊い命が救われました。
トルコの人たちは、国を離れてから約1年半、奇跡的に助かった69名は、再び故国の土を踏むことができました。
そして・・・・
昭和60年(1985年)3月17日、イランに住む日本人を危機が襲いました。
当時の中東は、イラン・イラク戦争の開戦から4年半、緊迫の状態が続いていた。
長い膠着状態に嫌気がさしたサダム・フセインは、驚愕の宣告をしました。
「今から48時間後、テヘラン上空を飛ぶすべての航空機は、撃墜する」と
テヘランには、約1000名の在留邦人がいました。
既に国外脱出をしていた人もいたが、多くの人が取り残されていた。
テヘランから脱出するには「イランが自国の航空機で外国人を脱出させる」 「西ドイツやスイスなど、外国の航空機の空席に乗せてもらい脱出する」など、考えられました。
しかし、各国とも自国民を退去させるのに手一杯。
とても他国民を助ける余裕がなかった。
日本政府は、時間がない事、安全が保証されない等の理由で、救出は不可能との結論でした。
タイムリミットは迫り、フセインの宣言時刻まで、2時間をきった。
他国の人たちが、自国の航空会社の臨時便で次々と退去していく中、空港には取り残された日本人215名が死への恐怖で、パニック状態でした。
その時、2機の航空機が到着した。
航空機は、空港にいた日本人全員を乗せて、テヘランを飛び立ちました。
タイムリミットまで1時間20分!
215名を乗せた航空機は、イスタンブール空港に無事到着しました。
そうトルコの航空機です。なぜトルコ航空機がきてくれたのか?
日本政府もマスコミもこの事をまったく知らなかった。
当時の駐日トルコ大使はこう言った。「1890年、和歌山県の串本町で起きたエルトゥールル号の遭難事故に際し、村の人たちや日本人がしてくださった、献身的な救助活動をトルコの人たちは忘れていません。私も小学校のころ、歴史の教科書で学びました。トルコでは、子供達も、エルトゥールル号のことを知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、イランで困っている日本人をたすけようと、トルコ航空機が飛んだのです」
そんな危険な状況の中で、日本人の命を救ったトルコの人たち。
エルトゥールル号の事故から、95年もの月日が経っているのに・・・
恩を仇で返す日本人が、多い近頃、トルコの人たちが教えてくれた、恩返しの心に感動しました。
トルコの人たちが、なんで日本人に親切なんだろう・・・。
その真実(理由)を知った時
こんな事があったんだ! ちょっといい話だったので書きました。
和歌山県東牟婁郡串本町。本州最南端の町。
明治23年(1890年)9月16日夜の事。
大型の台風により1隻の大型船が座礁して、爆発!
海に投げ出された一人の船員が、灯台守に助けをもとめた。
ずぶ濡れで衣服もボロボロのその男性の外見で、灯台守は、海難事故に遭った外国人であることはすぐに分かった。
どこの国の人か聞きましたが、言葉が通じません。
その男性は、自分の国の国旗を指さした。
トルコの国旗でした。 それを見た灯台守は、新聞で見た「トルコの親善使節団を乗せた船が横浜に入港し、大歓迎を受けた」という記事を思い出した。
まさか・・・
座礁した船は、重さ2334トン全長46メートルの大型船「エルトゥールル号」だったのです。
エルトゥールル号には、600人余りの人が乗船していました。
救出には、沢山の人手が必要!灯台守は一番近い、樫野の村に向かって走った。
島には、まだ電灯もない時代。灯台守は激しい雨の中、真っ暗な道を走り、村の人たちに助けを求めました。
村の人たちが灯台に着くと、岸壁の下には船の瓦礫といっしょに多くの船員が打ち上げられていた。
もう既に命を落としてしまった人が大半を占める中、かすかに意識がある人が何人かいました。
長時間、冷たい海と雨にさらされていたため、体温はどんどん下がっていきました。
激しい雨風の為、火を焚くこともできない。
そこで村の人たちは裸になり、自らの体温で船員たちを温めたのです。
言葉が通じないとわかっていながら、必死にエールを送った。一人でも助けたい一心で。
そして、69名がいきを吹き返した。
樫野の村は50ほどの小さな集落、自分たちの食料も大変な貧しい生活、看病も限界がある。
しかし村のひとは、非常食として飼っていた鶏を料理して、トルコの人たちに食べさせました。自分たちの最後の食料です。
異国の地で災難にあいながら必死で生きようとがんばるトルコの人たちをたすける為に。
村の人たちの献身的な活動のおかげで、69名の尊い命が救われました。
トルコの人たちは、国を離れてから約1年半、奇跡的に助かった69名は、再び故国の土を踏むことができました。
そして・・・・
昭和60年(1985年)3月17日、イランに住む日本人を危機が襲いました。
当時の中東は、イラン・イラク戦争の開戦から4年半、緊迫の状態が続いていた。
長い膠着状態に嫌気がさしたサダム・フセインは、驚愕の宣告をしました。
「今から48時間後、テヘラン上空を飛ぶすべての航空機は、撃墜する」と
テヘランには、約1000名の在留邦人がいました。
既に国外脱出をしていた人もいたが、多くの人が取り残されていた。
テヘランから脱出するには「イランが自国の航空機で外国人を脱出させる」 「西ドイツやスイスなど、外国の航空機の空席に乗せてもらい脱出する」など、考えられました。
しかし、各国とも自国民を退去させるのに手一杯。
とても他国民を助ける余裕がなかった。
日本政府は、時間がない事、安全が保証されない等の理由で、救出は不可能との結論でした。
タイムリミットは迫り、フセインの宣言時刻まで、2時間をきった。
他国の人たちが、自国の航空会社の臨時便で次々と退去していく中、空港には取り残された日本人215名が死への恐怖で、パニック状態でした。
その時、2機の航空機が到着した。
航空機は、空港にいた日本人全員を乗せて、テヘランを飛び立ちました。
タイムリミットまで1時間20分!
215名を乗せた航空機は、イスタンブール空港に無事到着しました。
そうトルコの航空機です。なぜトルコ航空機がきてくれたのか?
日本政府もマスコミもこの事をまったく知らなかった。
当時の駐日トルコ大使はこう言った。「1890年、和歌山県の串本町で起きたエルトゥールル号の遭難事故に際し、村の人たちや日本人がしてくださった、献身的な救助活動をトルコの人たちは忘れていません。私も小学校のころ、歴史の教科書で学びました。トルコでは、子供達も、エルトゥールル号のことを知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、イランで困っている日本人をたすけようと、トルコ航空機が飛んだのです」
そんな危険な状況の中で、日本人の命を救ったトルコの人たち。
エルトゥールル号の事故から、95年もの月日が経っているのに・・・
恩を仇で返す日本人が、多い近頃、トルコの人たちが教えてくれた、恩返しの心に感動しました。