阪神淡路大震災から21年。
早いものですね。
当時私は短大の2回生でした。
卒業制作(卒論?)や提出物に必死になってた時期で、1月17日提出期限のレポートを前日に仕上げ、朝9時の電車に乗って学校へ行く予定でした。
そして5時46分。二階で寝てたのでもの凄い揺れ!私は自分の部屋で1人で寝てたのですぐに大声で母、父、妹に安否確認。
「お母さん、お父さん、大丈夫?
腰抜けて動かれへ~ん(ू˃̣̣̣̣̣̣︿˂̣̣̣̣̣̣ ू)」
生まれて初めて腰を抜かす体験をしました。
7時過ぎテレビをつけたら(家族が無事とわかったら二度寝した。腰を抜かしてたので)地震の凄まじさが徐々にわかり始めて、神戸がえらいことになってる!
ちょっとまって!これ学校行かれへんのとちゃう?
西宮のほうの短大に通っていたので三ノ宮周辺が壊滅状態の映像みて学校には行けないだろうなと思ってたらやっぱり学校からの指示があるまで学校に近づかないようにと連絡がありました。
近づくも何も三ノ宮まで行かれへんし!
こういう状況だったので全学科、卒論&卒業制作は無し!全員無条件で卒業できるという。不幸中の幸いとはこのこと。(不謹慎ですが)
出席日数が足りなくて留年決定だった子も無事卒業でした。
そういえば私のクラスの友達は全員無事でした。家が全壊になった子はいたけど誰も犠牲にならなかったの。ほんとに不幸中の幸い。
地震発生直後は全然神戸の様子がわからなかったけどテレビで次第にわかっていくと、どんなに恐ろしい地震だったかと思い知らされました。
こんな大きなビルが倒れるなんて考えられない
↓阪神高速の柱がボキって折れて倒壊。
こんな広範囲で倒れてたんですね
↓これ貴重な写真だと思う。
生きた心地しなかっただろうな。
色がないというか、茶色一色。
電車からしか見てませんがこんな感じでした。
この時はただただ涙が流れて、何も出来ない自分の無力さを感じました。
なのでこの頃の朝ごはんはいつもオニギリでした。
この頃、消防法のきまりとかが曖昧だったらしく消防車も消防士もいる、ホースもあるのに消火栓に水が通ってないとか、目の前で燃えさかる家を消火できない状態とか当時の消防士さんたちほんとに悔しい思いをされたそうです。
その後防災意識が高まり色々改定されました。
水道もレバーを下げると水が止まるタイプにかわりましたよね。
日々、何事もなく生活できてることに感謝しないといけないなってこの日になると思います。
震災復興のシンボルであるルミナリエ。
震災の年の12月に初めて開催されています。
毎年開催が危ぶまれてますが(経費の都合上)
これからも毎年開催していただきたいです。
御冥福をお祈りいたします。