琳派の「魂」~宗達、光琳、抱一と<風神雷神図屏風> | Studiolo di verde(ストゥディオーロ・ディ・ヴェルデ)

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俵屋宗達、<風神雷神図屏風>、17世紀

 

尾形光琳、<風神雷神図屏風>、18世紀

 

 なぜ琳派は、一つの「ブランド」となり得たのだろう。

 なぜ、尾形光琳も酒井抱一も、<風神雷神図屏風>を模写したのだろう。

 そもそも俵屋宗達の描いた<風神雷神図屏風>の図像の源泉は何なのか。

 

 「琳派」について調べるとなると、やはりこの作品を避けては通れない。

 実のところ、私は今日までの数日間、<風神雷神>を追い続けていた。

 宗達、光琳、抱一、と三人の作品を並べた時、やはり私が推すのは最初に描いた宗達のそれである。

 画面の端ギリギリに配された構図、そしてまさに勢いよく外の世界から天を駆けて現れた、と言わんばかりの躍動感が、画面から溢れている。雲をまとって飛来した神々は、未だ互いの存在には気づいてはいないようであるが、もしもそうなったら何が起きるだろう。そう考えると、両者の間の空白を見つめ、そして左右に分かれた神々の姿を交互に見ずにはいられなくなる。

 約三百年前、この宗達の作品に巡り合った光琳は、どう感じただろうか。

 彼は作品をただ眺めただけではない。機会を得て作品の輪郭線を忠実にトレースしていったのである。そのため、光琳作品の風神・雷神は宗達のものと大きさが全く同じである。それでも両者を比べた時に、光琳の描いた方がやや小さく見えてしまうのは、屏風(画面)本体が宗達のそれよりも大きいこと、そして二神の位置を少し下げ、全体像が画面の中に収まるように配置していることが、原因として挙げられる。

 他にも光琳は、色調を明るいものにしたり、二神の周りの雲をもっと色を濃く、大きめに描くなど細かな改変をいくつも行っている。

 それから約100年が経った1821年には、今度は酒井抱一が光琳の<風神雷神>をもとに自らの作品を描いている。(こちらは原作をトレースするのではなく、本か何かで見た記憶をもとに描いているらしい)

 

 私は正直に言うと、「模写」をさらに「模写」するという形で受け継がれていくことを訝しく思い続けていた。

 まず光琳が、宗達の原画をトレースした、という形式にも引っかかるものがあった。ただ線をなぞる事で、何を得られるのか。そこに色をつける、というのは塗り絵と大差ないのでは、と。そしてそれをさらに模写した人物がいる、ということも後に知った。

 表面を、目に見える形をただなぞり続けていく中で、取りこぼしてしまうものも多いのではないか。そうして様式が形骸化してしまうケースは、美術ではよくある話である。

 宗達から光琳、そして抱一へ、とつながる琳派の系譜ではあるが、三者の間にはそれぞれ約100年の開きがある。師弟関係どころか直接の面識もない。光琳、抱一、彼らの前にあったのは先人の作品だけだった。光琳の前には宗達の、そして抱一の前には光琳の作品があった。ちなみに抱一は、宗達の<風神雷神>は知らず、光琳の作品こそがオリジナルとみなしていたと考えられる。

酒井抱一、<風神雷神図屏風>、19世紀

 

 また、そもそも宗達の風神・雷神も、もともとの図像は13世紀の絵巻物や12世紀に造られた彫像にまでたどることができる。

 彼らは、ただ先人の残したものをそのまま唯々諾々と受け取ったのではない。己の手で紙の上に再現する中で、自分ならばどうするか、と一人のクリエイターとして考えていただろう。それは、異なる時代や環境の中で生きる、自分自身の「絵」やそれを形作る要素とも向き合うことではなかっただろうか。

 例えば、京の呉服屋の次男坊として生まれた光琳は、染物や工芸品などのデザインの知識が豊富だった。また、幼いころから能楽や書もたしなみ、いずれにも卓抜した才能を見せている。

 一方、酒井抱一は大名家の生まれである。多趣味な兄の庇護のもと、俳諧や茶、絵など様々な文化に親しみながら育ち、特に俳諧は終生詠み続けた。

 そのような自分の中にあるものと改めて向き合い、同時に先人の技にも触れる。

 そして、先人に対抗し、そして乗り越えていけるようなものを自分の中から生み出そう、と念じる。この「乗り越える」という思いを抱き、努力し続けられるかどうかで、「亜流」で終わるか、それとも独自の道を切り開く存在になれるか、決まってくるのではないだろうか。

 

 17世紀に、イタリアではカラヴァッジョが強烈な明暗対比や感情表現によって、ラファエロやミケランジェロ以降停滞していたローマの画壇に新風を吹き込んだ。ベラスケスやルーベンス、フェルメールなど彼の影響を受けた画家は多いが、ただ表層をまねるだけに終わってしまった画家はどれほどいるだろう。

 光琳が晩年に手掛けた<紅白梅図屏風>は、まさに宗達の<風神雷神図>への彼なりの答えと言うべき作品である。

尾形光琳、<紅白梅図屏風>、

 

 風神・雷神はそれぞれ紅梅と白梅に置き換わり、しかも画面を越えて枝を伸ばしている。そして画面の中央には、上から下まで力強くうねりながら流れ落ちる大きな水流を配した。また表面の水紋は、彼の実家の家業の衣裳図案を想起させる。

 宗達の代表作が<風神雷神図>であるように、この作品はまさに光琳の名刺的な作品と言って良い。また、この作品は1873年のウィーン万博にも出品され、クリムトにも多大な影響を与えたと言われている。

 一方、抱一も、光琳の<風神雷神図屏風>への回答として<夏秋草図屏風>を描いている。

酒井抱一、<夏秋草図屏風>、19世紀

 

 この作品は、実はもともと光琳作の屏風の裏に描かれたもので、モチーフがそれぞれ表裏で対応している。

 風になびく秋草や、風に舞う蔦の葉が見られる左隻は風神の、そして真下に葉先を垂らす夏草や、上部に水たまりのようなものがある右隻は雷神の、それぞれ裏にあたる。

 しかも、背景は風神雷神の金地に対し、銀地になっている。

 今でこそ別々に分けられてしまったが、屏風の周りをぐるりと一周すると、なかなか楽しめたのではないだろうか。

 

 風神・雷神は、画家たちに描き継がれることで、「琳派」のアイコンになった。

 画家たちは先人の作品を写し取る過程の中で、そこに込められたエネルギーを受け取っただけではない。それを自分の中で燃やし、新たな作品を生み出す原動力とした。

 無から有は生まれない。たとえ古典などからの引用でも、自分ならではの工夫で新たな命を吹き込むことができる。その「工夫」の中にこそ、新たな世界を作り出すためのヒントや種がある。

 それが、琳派の「魂」と言うべきものではないだろうか。

 琳派の「琳」も、もともとは「美しい玉」や「玉が触れ合って鳴る、澄んだ音」を意味する。

 時を隔てて、相手の美の世界を認めつつ、新たな自分ならではの世界をそれぞれに開いていった画家たちをひとまとめに呼ぶのにも、まさにぴったりの字ではないだろうか。