フィレンツェ大聖堂秘話 ~プロフェッショナルたち | Studiolo di verde(ストゥディオーロ・ディ・ヴェルデ)

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フリーライターとして、美術、歴史などの記事を中心に活動しています。コメントや仕事のオファーも歓迎。(詳細はプロフィールにて)

 テレビ番組でイタリアを取り上げると、ほとんどの場合、最初に出てくる風景は、都市ごとに決まっている。

 たとえば、ヴェネツィアなら、リアルト橋のちょうど真ん中から見下ろすカナル・グランデ(大運河)。

 そして、フィレンツェなら、このサンタ・マリア・デル・フィオーレ聖堂(ドゥオーモ)のドームを含めた、街並みだろう。 

 空の青をバックに、レンガ色の屋根、そして白い壁がくっきりと、それぞれの存在を際立たせ合っている。

 この巨大なドームが造られたのは、今から約600年前、ルネサンス期だった。

 そして、この聖堂のちょうど真向かいにあるサン・ジョヴァンニ洗礼堂から、ルネサンスは始まる。

 まさに、ルネサンス発祥の地フィレンツェの象徴(シンボル)だ。

 

 1401年、大聖堂付属のサン・ジョヴァンニ洗礼堂の北側の扉の制作者を決めるための、コンクールが行われた。お題は旧約聖書のエピソード「イサクの犠牲」、7人の技師や芸術家がこれに挑んだ。

 最終的に選に残ったのは、ロレンツォ・ギベルティとフィリッポ・ブルネレスキの二人で、審査員だけではなく、市民に意見を聞いてみても、優劣はなかなかつけられなかった。

 結果については、ギベルティが勝ったとも、二人の共同制作になったものの、ブルネレスキの方で辞退したなどとも言われる。

 ギベルティが採用された理由については、ダイナミックで斬新なブルネレスキの作品に比べ、繊細で技巧的なゴシック様式を残す彼の作品の方がフィレンツェ市民の嗜好に合ったこと、また少量のブロンズで仕上げられ経済的だったということが挙げられている。

 ブルネレスキがそれを知っていたかどうかは定かではないが、後述するエピソードから見ても、「はい、そうですか」では済まなかっただろう。ましてや、彼と協力して作業にあたるなど、もってのほか、だっただろう。

 ブルネレスキはこの後、友人と共にローマに旅立つ。そして、10年以上にわたって、パンテオンをはじめとする古代の建築物を研究、その成果を己の血肉として、建築方面で名を挙げていくのである。

 

 そして1418年、フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ聖堂を舞台に再び大規模なコンクールが開催される。

 今回の課題は「聖堂(ドゥオーモのクーポラ)の設計及び工法」だった。

 これにブルネレスキとギベルティも参加、最終的には彼らを含めた三人体制で工事にあたることが決まる。

 しかし、ブルネレスキはそれで収まらなかった。

 複数体制も、そしてそのメンバーの一人がギベルティである、ということも気に入らなかった。 

 あんな奴に。

 ブルネレスキは、今回のプロジェクトに力を入れていた。それは、ローマのパンテオンから学んだ技術を最大限に生かすことのできる舞台だった。その点で、まず抜きんでている自信があった。

 また、完璧主義者の彼は素材選びにおいても400万個ものレンガをすべて自らの目でチェックしたとも伝えられている。さらには、レンガの組み方を工夫したり、建設のための機械を自ら発明するのみならず、作業にあたる石工たちの安全にも配慮していた。

 それにも関わらず、一人では任せてもらえない。しかも、建築工事の知識のないギベルティと同列に扱われ、給金の額まで同じだった。

 あんな奴に!

 苛立ちを募らせた末、とうとうブルネレスキは「急病」を理由に、現場に来なくなってしまった。

 残されたギベルティは困り果てた。「後は全て任せる」と言われても、彼には知識がない。何とか手探りで作業を進めていくが、ある程度進んだところで、病気で寝ていたはずのブルネレスキが現場にやってきた。そして、作業を一通り検分すると、やり直しを命じた。赤っ恥をかいたギベルティは、給金を減らされた上、後には首になってしまった。

 

 ブルネレスキは、自分の仕事、技量に大いに誇りを持っていただろう。並々ならぬ情熱をもって、大聖堂の仕事にも取り組んだはずだ。だからこそ、「無能」な相手と同列に扱われたり、横から色々と口出しされることに我慢できなかった。一人で、思う存分にやりたかった。その気持ちは理解できる。

 だが、ここまでくると、やりすぎだ。陰険すぎる。真似したくない。

 しかし、何百年も後にも名を残し続けた芸術家で、性格に難のなかった人はいるだろうか。むしろ、これくらいのアクの強さがあったからこそ、大聖堂のこの景観もフィレンツェそのものの顔としてあり続けているのだろう。そして、そのアクの強さの根底にあったのは、プロフェッショナルとしての誇りだったことは事実だろう。

 

 ブルネレスキに目の敵にされたギベルティだが、その鋳造技術は現在でも高く評価されている。また、彼の工房からは彫刻家ドナテッロや画家パオロ・ウッチェロなど初期ルネサンスを代表する優れた芸術家たちが出た。 

 ちなみに、1436年のクーポラ完成後、上に乗せる頂塔(ランタン)の設計をめぐるコンクールにも二人は共に参加、三度目の戦いとなったが、最終的にはブルネレスキの勝ちに終わっている。

 ここに二人の戦いは終焉を迎えた。

 

 芸術家たちが競い合い、ぶつかり合う、そうした場からはしばしば素晴らしい作品が生まれる。

 フィレンツェという都市も、またそうした作品の一つなのかもしれない。