同級生 S 君が亡くなったと、

人伝(ひとづて)に聞いた。特に懇意に

していた訳ではないが、土地の名産品などを

送ってもらっていた一時期もあった。

 

 たまたま、彼の家の近くを通る用事もあったので、香典を用意し、弔問に伺ったが、

家は留守だった。隣の家の人によると、

今は、東京の有名ホテルをやめた息子さんが、家族と一緒に帰ってきて、住んでいる

と言う。

 

 「それで、奥さんは?」と、訊ねると、S 君の亡くなる7年ほど前に、亡くなったとのこと。女性が長生し、後に残るもの、とばかり考えていた私には、“え、そんなことが” の想いだった。奥さんとは、幾度か会って知っていたので、お悔やみの一言でも言えたらと思って来ているので、その話を聞いて、

弔問は止めた。無音(ぶいん)が続いたので、何も知らずにいたのだ。

 

 同級生の K 君は、昨年、奥さんを亡くした。十年近く、重い病気で、寝たり起きたりを繰り返していた、その奥さんが、亡くなったのだ。

 

 「あと二年だけでも、生きていてくれたらなぁ〜」と悔しさを堪(こら)えるように、幾度となく言った。

 

 暗い話になってしまったが、本題はこれからである。

 

 先が見える年齢になったら、夫婦仲良く、人生を楽しく過ごしたいと、ずっと考えていた。同級生の境涯(きょうがい)など考えると、先の見える年齢になった、と考えるのが自然であろう。

 

 しかし、妻がそんな風に考えている

節(ふし)は全く見られない。仕事に、

相当に、入れこんでいる。

 

 人に言ってみても、「結構なことでは!」と言われるのが落ちなので、繰り言は

誰にも言わない。(ここに、書いてしまっているが。)

 

 先が見えて来た、と言うことは、夫婦の別離(わかれ)もそう遠くない、と言う

ことである。

 

 晩年を楽しみ過ぎると、その分、余計に、別れの時は悲しいものとなる。

 

 今の、この状況を、素直に、受け入れるのが、賢明。そう考えたら、得心がいった。

 

 暫くは、二人一緒にではなく、私一人で

楽しめることを探す努力を大いにして

みよう。