創作の歴史は同時に模倣の歴史でもある。
ぼくがかんがえたさいきょうの表現というものは、もう既に先人が更に上手く取りまとめてしまっている。
クリエイターになる為、いやクリエイターであり続ける為にはそういう事にブチ当たったとて、めげずに何処が自分と違うのかとかを研究しなきゃいけないのである。
創作というものの本質は、多分ゼロから作るというよりも多分1をどう足していくかとか、どういう見せ方をするかを工夫するとかなんだろうなと思うのである。
ただまあ昨今はもう既にある表現にイチャモン付けたり、別の起源を主張したりするのが、特にハリウッド辺りでは流行っているみたいである。
表現というものには勢いと内省が必要だと思うが、その自由を否定する人達は勢いだけがあって、内省がないから著しく客観性が無いクソムーブが出来るのだと思うのだがどうだろうか。
閑話休題、模倣とパクりの分水嶺ってその表現への敬意の有無である。
そして元となる表現に何某かのアレンジというか、個々人の視点を加えられるかだ。
この定義が正しいかわからないが、僕はそう思っている。
どれだけ急に出てきた様に思える大ヒット作でも、実は先行作に対するオマージュに溢れているものだし、そういうものなしに多分創作というもののは、繰り返すけども成立しないのだ。
ただそれで稼ぎたいからとりあえずパクって稼いでみるというのは、バイタリティこそ尊敬するが著しく敬意を欠く行為である。
でもまあそういうのって国民性なんだろうなと納得せずにはいられないのが、香港発祥のラブブの模造品のニュースである。ただこのニュースを読むと、模倣品に別の愛称さえ付けてそれの消費を楽しんでいる。
更に言うと、その模倣品業者を肥え太らせるだけであろう行為さえ権力への反抗的に楽しんでいるフシさえある。
僕はどれだけ中国共産党の連中が暗君だとて、中国人へ同情する気がさらさらない。

