夢を見た。
樹が、死んでしまった日の夢。




枕許の携帯を引き寄せフリップを開けて時間を確認する。夜中の三時を過ぎた所だった。梅雨明けにも関わらず湿度は未だ高いようだ。じっとりとする全身に樹は目を細める。
シンとした真っ暗な自室は、どこか違う場所のように感じてしまう。ここ最近だ。
「――いつき」
小さく、でも普段と変わらない声量で呼んでみる。私は何度繰り返せば気が済むのだろうか。
気づけば、泣いていた。私なのか、樹なのか。はたまたイツキか、亜希か。何かが体の中を駆け巡っていく気がした。叫びたいような衝動が、あった。
あの日、どうしても消えることが出来なかったのは、樹との約束があったからだ。ちいさなちいさな、優しい心が壊れていく中でそれでも言った。

いつか おしえて

自分が知り得なかった全てを、いつかでいい。教えてほしいと樹は泣いた。
「私も、知りたいよ」
頭を抱え込んで目を閉じる。全ての感覚を遮断して、自分の世界へ入り込む。
「樹」
声に目を開けば、亜希がいた。痛ましげに歪められた顔が、心配していると語る。
「私は、どうすればいいのかな」
笑ってそう言って、本当にそう思った。
どうしたらいい。
どうしたら、私は、樹は、報われるんだろうか。
心の中に広がる消えない闇は、樹が居なくなっても尚在り続けている。
消えないのだ。きっと、ずっと。確信に近い感覚でそう思う。忘れるなんて許さないと言うかのように奥底に鎮座して、堕ちてくるのを待っている。


私の幸せは、樹が幸せになってくれる、ただそれだけだった。
それだけが、私のたった一つの願いだったんだ。
 
 あのね、わたしは、やっぱり自分の願いを叶えたいんだ。
 でも、叶わない願いを持ったままこれ以上生きるのは、いやなんだ。

 だから、あなたにこの体あげる。
 わたしのかわりに、しあわせになって。
 わたしは、この先しあわせにはなれないから。

 わたしがわたしであるかぎり、わたしの願いは叶わないんだ。

 だったら、わたしは何の為に生きるの。
 わたしは、なんで生きるの。
 わたしには、何の意味もないのに。

 わたしが泣いても気づいてなんか貰えない。
 わたしがいなくなってもなにも変わらない。

 なら、あなたにこの体をあげる。
 好きに使っていいよ。
 『わたし』がみれなかったしあわせを、あなたが代わりに見つけて。










 いつか、おしえて。
 わたしがみつけられなかった『しあわせ』
 わたしが感じられなかった温かい『愛情』

 それで、いつか伝えて欲しい。
 わたしがいたこと
 わたしが欲しかったもの
 わたしが望んでたもの

 わたしが消えたこと






 ねえ、樹

 わたしは、どうして生まれてきたのかな?
 どうして、こんな風になっちゃったのかな?
 わたしはどうして、もっと、言葉にできなかったのかな?

 樹とはこんなにお喋りしてるのに。変だね。

 生きてる事は哀しい
 願いを持ってる事は苦しい

 世界はちっとも優しくなんかないね。

 おとうさん
 おかあさん

 わたしは、かなしいよ
 どうしたらいいかわからないの
 どうしたらよかったのかわからないの


 しあわせじゃ、ないの




 だから、もうゆっくり眠りたい。
 夢でしあわせな夢をみたい。

 ここは哀しくて苦しくて、泣きたくなるんだ。






 


 だから、もう、起きてたくない。
 
 この世界にわたしのしあわせはない。


 さよなら


 本当はね
 わたしは、消えたくなんかなかったよ
 わたしは、しあわせになりたかったよ

 生きてる事を喜びたかったんだよ

 だけど、かなしいかなしい夢だった


 だから

 願わくば、ただ安らかな眠りを。

 いつか、

 わたしの中に生まれた深淵が消える日が来る事を。

 

 わたしは、


 祈っています。



 
 私にとって、誰かを好きになる事はとても恐ろしい事なんだ。
 私は私を愛してあげる事が出来ないから、愛してもらっていると実感した事もないから、私はきっと好きになっても愛し方が解らないんだ。

 他人を優先する事でそれを愛情と誤魔化す私は、とても、汚い。












 友人からの恋愛相談は多い。キューピッド役もよくやった。それでカップルになる子もいたし、それを見るのは好きだった。幸せそうに微笑む友人達を見ていると、それだけで私の心は満たされた。
 必要とされていると思えることは、何よりの私の安息だったんだ。
 ただ、いつだって自分の事となるととても不器用になる。当たり前だ。私はいつだって私を優先する事はない。好きだと思っても、伝える事は多くない。伝えた所で、その先を望んではいないんだ。
 愛して、愛されて、そんなのはもう、いい。
 私が欲しかったものは今も昔も同じで、それは一生手に入らない。だったら、他のものを望んだって仕方ない。もし望んで手に入ってしまったら、あの時の私が死んでしまった意味がなくなってしまう。何の為に絶望して全てを諦めたのか、私は忘れたわけじゃない。
 恭介は、あれからあいつ等と居る事は少なくなっていた。こうなる事を望んだわけじゃなかったのに、でもあいつの選んだ事に私が口を挟む権利はない。私が自分のエゴで、あいつを突き放したんだから。
 二現の休み時間、いつものように隣のクラスから友人が来てくれる。
「いっちゃん」
「あれ、次そっち体育?」
 窓からひょこっと顔を出してきた緑と涼子は体操服だった。
「そうなんだ。今から行かなきゃいけなくて、ごめんね」
「昼休みまた来るね」
 どうやら顔出しだけは、と思ったのか申し訳なさそうにする二人に私は苦笑した。
「そんなの気にしなくていいのに。でもありがとね。みぃ、涼」
 それを聞いて二人も笑った。手を振って送り出すと、廊下からあいつ等がにやにやこっちを見ていた。
「・・・・・・」
 無言で睨みつけると気色悪い笑い声を上げた。
「今日も仲良しですねー」
「ラブラブ~!」
「ぎゃはははっ」
 鬱陶しい。こうなると徹底的に無視を決め込むのが常だ。でも、今回はからかいだけじゃなかった。
「そういやあ、最近恭介いないなあー。寂しいっしょ?」
「は?」
 思わず反応してしまった。途端に楽しそうに喋り出すそいつ、四条 祐也。こいつも同じ小学校出身だけれど、もう今となっては敵も同然だった。
「あいつさ、急に抜けてやがんの。飽きたとかなんかつまんねえこと言ってさ」
 あからさまにため息なんかついて演出してくる四条に苛立つ。
「でもさー」
 睨みつけていると、四条が楽しそうに目を細めた。
「俺、見ちゃったんだよね~放課後お前らが話してんの」
 鳥肌が立った。覚えのある放課後なんてあの日しかなかった。最後に正面から恭介の顔を見た、最後の日。私は気づけば窓枠を超えて四条に掴み掛かっていた。
「喋んな」
 これ以上ない位睨みつけたと思う。両手にありったけの力を込めて学ランの襟元を握り締めた。
「いってぇな、いきなり何すんだよっ!」
「絶対喋んな」
「・・・・・・なんで俺がお前の言う事聞かなきゃなんないわけ?」
「あんたは、あいつの友達でしょ?」
「あんな腰抜け、もう知らねえよ」
 四条が最低なのは、私も昔から知ってた。男のくせに女々しくて、卑怯で、弱いくせに吠えまくる鬱陶しいやつ。でも、それでも、友達に関しては四条は見直せた。何があっても友達は大事にする奴だから。
 だから私は、突き放したのに。
「つか、いつまで掴んでんだよ。キモイから離せ」
 ドンッと突き飛ばされて一瞬息が詰まる。悔しくて、悲しくて、視界が歪んだ。
「お前らさー本当は付き合ってんじゃねえ?」
 四条の横に居た川村 一樹が、そう言ってきた。こいつは、タチが悪い。
「それともさ、私をいじめないで、って柏木が恭に頼んだの?」
「・・・・・・」
「答えようによっちゃ、あいつをまた仲間に戻してやるよ」
 こいつは、知ってる。私はそう思った。知ってたんだ。恭介の気持ちに。悪魔みたいな男だ。じわりと涙が滲んで堪え切れずに溢れた。
「あれ~泣いちゃったのー、いっちゃん?」
 ゲラゲラ笑いながら四条が見てくる。騒ぎに廊下がざわざわとしてきて、焦る。どうしたらいいのか考えていると、いつの間にか川村が正面に来ていた。
「っ!」
「なぁ」
 長身を屈めて私にしか聞こえないように川村は耳元で言った。
「恭を助けたかったらさ、泣いて頭下げろよ」
「!」
「大好きなあいつの為なら、簡単だろ?いっちゃん?」
 恭介の、あの苦しそうな、泣きそう顔が浮かんだ。お前は、違うの、と言った恭介。
 きっと、私がこんな風に言われたり、されたりするのを見るのが嫌で 、あいつはここを抜けたんだ。
 でもさ、恭介。
 あんたはそんなんでもこいつらが好きじゃん。こんなんでも、あんたの友達じゃん。友達大好きのあんたが、簡単に、離れられるわけないじゃんか。
 私は、友達の中で馬鹿みたいに笑ってるあんたが、昔から大好きだったんだよ。
 私は笑って、目の前の川村を見た。
「泣いて、頭下げれば、あんたは恭介を戻してくれるのね?」
「ああ」
「あいつのことは、何も話さないでくれるのね?」
「もちろん」
「・・・・・・もし嘘だったら、私はあんた達を許さないから」
「恭は嫌いじゃない。嘘なんかつかねえよ。俺はただいっつも睨みつけて涼しい顔したあんたが泣いて頭下げるとこが見たいだけ」
「・・・悪趣味が」
「どうも」
 たぶんこいつは、言葉通りだな。私の無様な姿を晒したいだけだ。でも、これであいつは元に戻れる。なら、いいじゃない。元々、そうなって欲しかったんだもの。
 溢れる涙を堪えずにぽたぽた零しながら、恭介の笑った顔を思い出す。小学校の時から、ずっと見てきたあの笑顔。友達として隣に居て、楽しくて、嬉しくて、あれに名前をつけるなら、幸せ、なんだろうな。いつからか、あの笑顔を自分だけに向けて欲しくなっていた。でも、無理だ。同じ好きで返せるのかも解らない。気持ちが変わらないなんて、そんなの言い切れない。あれをそんなつまんない事で失ってしまうくらいなら私から、手を離すよ。
 それしか、私は知らないんだ。
「――お願いします」
 目の前の、薄汚れた緑色の床に雫が落ちていく。ざわざわとする周囲。でも、どこか遠くに感じられた。ふと、顔を上げると、渡り廊下の向こうから恭介が歩いてきていた。ゆらゆらする視界が恭介だけはどこか鮮明に写している。驚いたように眉間に皺を寄せ、何か言っているのか口を開けている。

 『いっちゃん』

 読唇術なんて解んないけど、でも、たしかにそう言っていた。思わず、口元が緩んだ。嬉しくて、悲しくて。私は笑った。
「誰にも、言わないで下さい」
 頭を下げて言えば、四条は馬鹿笑いしている。川村が笑ったのが空気で感じられた。
「上出来、いっちゃん。傑作だ」
 無様すぎて。
 無様で結構だ。こんなの、なんて事ない。止まらない涙も、あんた達の為なんかじゃない。全部、あいつの為だ。
「約束だから、恭は仲間に戻してやるよ」
「当たり前だ」
「泣きながら睨んだって怖くも何ともねえよ」
 鼻で笑う川村を変わらず私は睨みつける。でも、すぐに視線をそらす。
「お前らなんか大嫌いだ」
 態と、周りに居る奴ら全員に聞こえるように、言った。もちろん、恭介にも。
「お前らみたいな馬鹿な奴らも、こうやって影でこそこそ言うくせに直接言えない奴らも、みんなみんな大嫌いだ」
 だから、私にもう関わらないで欲しい。そう思いながら、声を吐き出した。
 でも、弱い人間は、嫌いじゃない。弱いからこそ持てるものもある。得られるものが存在する。それでもやっぱり手に入らないものもあるけれど。
 私の言葉にざわつく周囲を無視して教室に戻ると、クラスメイトが困惑した顔でこちらを見ている。
「・・・なに」
 低く言えば、
「いや、べつに」
 お決まりな返答が返ってくるだけである。こいつらは巻き込まれたくない、ただ只管傍観者に徹している。でも、中途半端な傍観が一番嫌いだ。
「なら、いちいち見んな。巻き込まれたくないんなら一切関わんないで」
 机の中に入れていたノートや出しっ放しにしておいた筆箱を鞄に詰めて教室を出ようとしたが、出来なかった。
「柏木さん、何してるの」
 舌打ちしたくなった。あの場所は職員室から丸見えだったのにもっと早く気づくべきだった。
「なにって、帰るんですよ」
「まだ授業は終わってませんよ。それにさっきの騒ぎはなに?説明なさい」
 あいつらにも確認したのかよ。いや、してないだろうな。本当に、この学校は腐ってる。いじめも、授業妨害も、素行の悪さも、何一つ改善されない。生徒を怖がって差し使いのない態度を取る大人をどうして尊敬出来るんだろうか。
「・・・いつもの言い合いですよ。気に食わないことを言われたので私が掴み掛かったんです」
 担任であるこの女教師が私は大嫌いだ。母親のように生徒に接しているらしいこの人はただのお節介なだけである。肝心な時には結局保身に走るんだ。
 睨みつけながら言って脇を抜けようとすると腕を掴まれた。悪寒が走った。
「っ触んなっ!」
 バッと腕を振ると扉に思いっきりぶつけた。痛かったけど、お陰で触られた感触はなくなった。
「な、先生に向かってなんて口の聞き方、」
「先生なら!」
 腹が立つ。何でこんな人が先生なの。
「先生ならっ!もっと全体見て、何が良くて悪いのかの判断してから言って下さい。そんな事も出来ないくせに、偉そうに説教しないで下さい!」
 守られたいわけじゃない。私が悪いならそれでいい。でも、そうじゃない。私は悪くなんかない。解ってくれる人は解ってくれる。でもそれじゃあ、何も変わらない。でも、こうして言葉にしたって、何も変わんないんだよ。だったら、私はどうすればいいの。
 何も言わない担任の横を抜けて、私は廊下を走った。四組と五組の横を見ると、小学校からの友人等がこちらを見ていた。でも、来ようとはしなかった。これが、現実。それでいい。いじめられてる奴に何か、関わっちゃ駄目。私を庇って標的になっちゃったら私は自分を殺してやりたい。
 だから、そんな泣きそうな顔しないで欲しい。皆は何も悪くない。私が選んだんだ。こうなるって分かってた。その上でこんな行動に出てるんだから、全部私の責任。
 私だけの、後悔。
 昇降口で靴を履き替えるとチャイムが鳴った。辺りを見渡せば誰もいなくて、暫くすれば始礼の挨拶が聞こえるだろう。
 

 シン、としたそこは、私しか存在しない世界みたいで、とても安心した。
 でも同じ位、悲しかった。