息子がインフルエンザで私は義父に近づきませんという宣言で関係職種が皆さん把握されて、すぐに体制は整いました。元々、私は直接介護の人員にはしていませんので問題ありませんでした。さらに私の転倒、頭部負傷には驚きが走りましたが、こっちはなんとかやっておきますからという専門職の皆さんの言葉に安心して、私自身の通院何箇所か連日通いました。整形外科では、頭部毛髪部は整形外科では触れないので念のため脳神経外科の受診も勧められました。歯科では、はめたばかりの奥歯が割れたとわかり、どこの医師にも私はかなり同情されました。強制的に通院の時間で私自身を労る時間がとれました。
顔は数日、大きくガーゼが貼られたり、傷テープを貼られていたり、その後も化粧的なことができず、哀れさが増しました😅
夫の交通事故から5ヶ月が過ぎてようやく、事故からずっと痛々しい私をいたわることができました。
透析の送迎については、遠くに住んでいたとしても義姉に全面的に調整を振りました。病院と交渉済みでしたので、今後は義姉に結果を入れてもらうように義姉から病院に連絡してもらいました。ここまでの調整が大変だったのです。病院からの連絡を待つだけなのですから簡単なことです。ちょっとした抵抗はされたかもしれませんが、私が頼むことに何の罪悪感も持たずに頼む(押し付ける)ことができました。私の怪我の効能でした。
私は安堵できたことはできたのですが、義母の頼むお助けサービスの送迎は色んなことが起きて、その話を聞くのは続きました。
最終的に私が、総合的に理解したのは、
義母は、誰かのせいにできる誰かが必要だったのです。その、「誰か」として確保されていたのだと思いました。義母の話しは些細な雑談でも、誰か悪い人が存在します。そういう思考をしないと、落ち着かないのだと思われました。そのため、長年、私はその格好の餌食であったな😅と思いました。
私は義両親の話しをどちらも聞いてきて、お二人はいつも、同じ考えだと言っていました。義母には義父の話しを再度確認しても同じでしたので、私は二人の意見を区別することができないでいました。今回、義父が介護の状況になり、改めて、義母は義父と考えが違う人なのだとはっきりと認識しました。20年以上わからなかったことがわかってきました。
義父のトイレ問題も義母から話しを聞き続けていたのでポータブルトイレの判断ができましたが、それでも、話しが終わらず、義母は「下の世話」の話しを私にしたかったのです。前立腺ガンの投薬の影響で女か男かもわからなくなってるとか「しも」の話しを聞かされます。義母の周囲の女性たちはそれで、どれどれ?となる人たちだったのでしょうか。私はそうならず、全てを律儀に真に受けて介護の対応に繋げたので、義母の思い通りにならなかったのです。義父も自分でトイレに立つ意思がありました。義母には、「下の世話を嫁にやらせていた」というストーリーが欲しかったのだと推測します。その思惑通りなことになりませんでした。私の持っていた資格(社会福祉士)が私を後方支援させて私を守りました。
私が義両親宅に入れませんので!と散々宣言したのもあって、義兄は冬の休暇をクリスマスより前から長めに取得したということになりました。これも怪我の効能でした。まず、現状どうなのかも見てもいませんので義兄に何か頼むまでになりませんでした。
義父の退院から在宅となって、まず、義兄と義姉に来てもらい、、という労力に数ヶ月もかかり過ぎていて、忙しい二学期を過ごす息子たちすら義父に会えていませんでした。息子たちは私の様子から義父は大丈夫そうだと推測するしかありませんでした。
私の通院は年末の最終週にも続いていました。余裕なんて全くありません。そうこうしていたら、今度は長男の首が片方だけ腫れあがり、年末に救急か?という事態になりました。オンライン診察を受けてみたら、首の内側に腫れか、外側に腫れかにより、内側であれば呼吸に支障あるため救急へ、幸い外側なので、インフルエンザのようなタイプのものだから抗生剤処方で5日間の隔離対応となりました。
!!!!!😱
孫との面会を先延ばしにしてきましたが、お正月三が日も面会厳禁となってしまいました😱
仕方ないことは仕方ない。
介護職の皆さんは、12/31までは通常通り来訪します。しかし、三が日は休みます。申し訳ありませんとなっていました。
こちらは家族が大勢いるので、年末もっと前から来なくていいですよー、なんて夫らは介護の皆さんをもっと早くから休ませようとしていました。しかし、そこは、必ず大晦日まで来ます!!という介護職からのブレないお返事があり、夫の軽い対応は即却下されていました。
12/31まで、キチキチの訪問看護や介護を義兄、義姉にはみてもらいました。
私たち家族は、お正月も義父に会えないのだと一旦は決めました。
しかし、私にはわかっていました。
来年のお正月はないのだ、と。
これは、会わせておかなくてはいけないと思いました。
さすがに隔離の受験生は無理としても、とっくにインフルエンザは治っている次男と、問題ないが問題しかない夫の二人は義父と会っておいたほうがいいと決心し、
1/1は夫、私、次男は義父に会いにいきました。
義父は、綺麗な白いザックリと編まれたセーターにスラックスをはいて、元日らしくキチンとさっぱりとした身なりをし、介護専門職の皆さんから決められた場所に座っていました。
とにかく、短時間だけでもと思い、次男と会わせました。義父は目を細めてホッコリとした笑顔で喜んでいました。孫であり、若い男性というだけでもエネルギーがあるものです。喜んだ様子に私も嬉しく思いました。
義父はキチンとされている横の食卓では、ゆる〜い服装と長い食事をとられたゆるゆるな面々と義父の姿は対照的な風景でした。
私のような、最後の正月というような悲壮な考えをしている人は、一人もいませんでした。
私は次男と義父の写真を貴重だと思い、撮りました。そして、夫も両親二人と写真を撮ったほうがいいよと促しました。
義父の横に夫が立つと、義父は、
「マスクをとれ。かっこがつかん。礼儀も知らんのか」と、親と息子の関係性として、親としての指導をスパッと次男(夫)に入れていました。素直に夫は応じていました。
義母もキチンとした格好をされていたので一緒に写真を撮りました。他の義兄、義姉夫婦は、突然きて突然写真をというような準備はしてない様子で、誘うことは控えてしまいました。うちの家族も、家庭内に隔離患者がいるので、そう長くゴタゴタするわけにもいかず、早々に切り上げました。
その時までは、在宅介護の対応していた状況が維持されていたので、伝わっていることに安心して私は帰宅しました。
三が日でも透析対応となり、義姉がどうやって義父を連れて行くかと困り、〇〇ちゃん(私のこと)に車を出してもらって病院に行こうとなり、連絡が来ました。さすがに他のメンバーは私に頼むとは言えませんでした。私は透析対応絶対にしませんと宣言していたからです。義姉は忘れたのか、図々しいのか、私には理解不能でしたが、私はいいですよと応じました。年明けに病院の送迎車に乗れることが決まっていました。これが最後の一回だったのです。むしろ、私を頼んでくれて、私も携わらせてもらったのは私も嬉しく引き受けました。
車で迎えに行き、いつもは車椅子なのに、誰も対応を知らないのか、義父が言うようにしたのかわかりませんが、義父は杖をついて歩かせられていて驚きました。そして、ほんの少しの間にかなりヨボヨボになっておられて驚きました。歩かせるのは無理があるだろうとツッコミたかったですが、私は運転席だし、何もできないし、本当に何もわかってない面々だったのかと愕然としました。私はただのタクシーでした。どうもありがとう、と使われただけでした。
翌日の朝になり、義父が亡くなっていると連絡が入りました。
夫は出勤してしまい、、呼び戻し、夫に付き添い、息子二人を連れて義父宅に行きました。
突然?と、何が起きたか、よくわかりませんでした。
断片的な話しを繋げて、朝方に義父は一人でポータブルトイレに座ってようをしたようだとわかりました。その後、自分でベッドに戻られた、と。朝、介護が来るから起こして起きないことに気がついたということがわかりました。
義父は最後までトイレに自分で立ちました。ポータブルトイレの存在は、義父のプライドを守りました。私は対応してきて良かったのだとわかりました。
私はこの冬の義両親へのプレゼントに「毛布のようなパジャマ」という温かなフワフワのパジャマをプレゼントしていました。義母にも色違いで差し上げていました。お二人は寒くないととても喜んで使ってくれていました。そのパジャマ姿の義父でした。私は温かな報われる気持ちを得ることができました。そのようなプレゼントを他の誰もしていませんでした。
その日は、大学受験の共通テストの10日前でした。ようやく会えた義父に、長男は生きて会えることができませんでした。
息子たちは死体を初めて見ることになりました。
どんな心境だったかと思います🥲
私は義父と長年に渡って話しあってきたことを思い出しました。
義父宅を建てる25年前からのことです。
「ワシはな、孫に生き様を見せたいんや。人は生きて死ぬことをナマで見せられるのは家族しかおらん。それをワシは体を張って見せたいんや」と言っていたことを思い出しました。この家を私たち夫婦と二世帯住宅にしたいと計画して大きな家を建てました。
なんと、✨
義父の願いが叶ったのかもしれない✨
不謹慎ながらも、報われました。
そして、実子を呼ばなくても全員集まっている。そして、その後の複雑な対応全部、私には一つも降りかかることがなかった✨
思っていたより早かった、けれども、なにこの、素晴らしいタイミング✨✨
天の采配か??🌈✨✨✨
夫は、感情失禁の激しい時に、人がこんなにも悲しみを表すのかと、周囲が引くほどに、号泣、叫び、泣き、土下座、立ち上がり、土下座、を繰り返し、咆哮するかのように泣き叫びました。
「おとうちゃん、なんでや、突然死や」と。、
父親が亡くなったという悲しみは理解できます。激し過ぎるのも、家族しかおらず、異常かどうかはギリギリでした。しかし、私たち次男家族は全員悲しんでいることは伝わりました。
お正月のキチンとした家族写真は、次男と夫のものが残されました。誰も写真は撮っていなかったようでした。あの時の、私の決断、良かったです✨
備えていれば、救われます。
そして義母は、透析の送迎の対応が悪くて、寒くて義父が風邪をひいて亡くなったと繰り返しました。
