私が16歳か17歳のころ、わかっていたのは、一つのことだけでした。学校での生活が、外部からの脅威や政治から守ってくれる環境だったのです。勉学の環境のなかに、知的な環境のなかに保護されて生きているという考えに私はいつも夢中になりました。私にとって、「知識」とは、個人の存在を守るべく役にたつものであり、また外部の世界を理解させてくれるものなのです。私はそう思っています。「知識」とは、物事を理解することで、生きてゆくための手段となるものなのです。(桜井哲夫「フーコー知と権力」講談社1996年から「エスト誌」インタビュー)



 このフーコーさんの言っていることが、痛いほど解る今日この頃。ああ、私はこのままどうなっていくのか、22歳のわたしよ。大学という空間に守られ大学生という肩書きが与えられ、その場から離れ外部の世界で生きていくことがどんだけ大変なものかという、とても余計でとても必要な「知識」までもわたしは得てしまったのです。そんな「知識」が本当に生きてゆくための手段となるのか、わたしはフーコーさんの主張には反対します。習得した「知識」によって物事を考える力が増した結果、それが物事を実行するにあたっての妨げとなってしまう原因の1つとなる、そう思うんです。あれま、なんだか説得力に欠けてしまいました。

 あと20日で卒論提出だっつうのに、レポートが2・3個のこってるっつうに。こんな独り言をつらつらと書いている暇があったらやるべき事をやっておしまいなさい、とマリア様がおしゃっております。

 いや、私はクリスチャンではないんだけどね、前世が修道女だった気がするんです。ヒッピーみたいな欧米人と日本人の女性がやっている雑貨屋で、この前マリア様×イエスのシールを購入しました。ある人がヨーロッパの街を貫くキリスト教版お遍路をしたいと聞いた瞬間、もしやこれはこの人と一緒にそこへ行く運命なのかも、と勝手な想像をしてしまいました。それからそれから、友人に私の前世は修道女か宗教関係だったと思うんだよねと話すと、うんうん、そんな感じがする、というような返答が必ずあるんです。だからそう思うんです、なんとなく。

 ということで、今から雑念を取り去り、ポート作成へと勤しみます。