鮒はダメだった…やっぱし | 狂った日本の中で生きるチカラ

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日本の社会に翻弄されて得た沢山の記憶と体験をこれから体験するかもしれない人のために在るべき姿。

首都圏のお客様の要望で信州の川魚で作られた食材を…という事で、鯉だの何だのと集めてみた。

鯉の甘露煮
鮒の甘露煮
オイカワの甘露煮
ワカサギの甘露煮
蜂の子の甘露煮
イナゴの佃煮
蚕の蛹の佃煮

こうやって書いてみると甘辛いものばかり。
信州の糖質と塩分の摂取量はハンパない。

この中でどうしても食べられない…と思っていたものがある。

鮒だ。フナ。

多摩川の下流域で育った私は幼い頃を昭和50年代で過ごした。
川は青く濁った水。泡が立ち臭いがおかしい河川水で、足をその水に突っ込んでい続けると皮膚がただれたという昭和の公害代名詞のような環境。
鮎など決して住めない中でも鯉や鮒は生存していた。

しかしもちろん食えたものではなく、ヒレがおかしなところに付いていたり、目の位置がおかしかったり、エラがひっくり返っていたり。

そんな生き物の様子をずっと見て育った私にとっての鮒や鯉は決して口にする気持ちになどならないものだった。

それでも長野への移住当初にはスーパーに売られているブツ切りの鯉を見ただけでも気分が悪くなっていたのだけど、最近では適切な水でドロ抜きをされた鯉なら食べたいと思えるようになったものの、鮒だけは食べ物とは見れずにいたのだ。

今回顧客に提案するにあたり、やはり口にしないものを出すわけにもいかず、どうしても食べてみようとサンプルで購入しトライ。

見た目はヤッパリ鮒。
小鮒なのだけど、昔を思い出し吐き気がする。

箸で1尾取り、頭から一口。
噛んだ瞬間、やはり昔の鮒を思い出してしまい、半身でダウンした。

食はこの半生本当に様々なものを食べてきた。
世界中で日本人が口にしないものもとにかくトライしてきて、大筋のものは舌と感覚で学んできたが、やはり幼い頃の印象というのは充分にトラウマとなるのだと改めて体感した。

ムリだ。。。
こんなにも無理とは…。

人は多くの場合感覚と記憶で味や質感などを感じて美味しさを細かく分析して認知している。
その殆どが実は食べる前から脳の中で準備されていて、その記憶と味蕾の感じる感覚が一致したり大きく良い意味で異なる事で「美味しい」と感じる。
逆の場合は「不味い」となり、食べて腹痛になったり周囲の大人が教える味の基準によっての経験則が加わり食するかどうかの判断を行なう。

私にとっての鮒は、食べたこともないのに幼い頃の劣悪な自然環境と環境汚染からくる毒性へのリンク、そして川魚はどこか美味くないという偏見が重なり食感すら嫌な感覚となって気分が悪くなり吐き気すら催す事になってしまった。

味覚とは曖昧で大きく他人とは異なるものなのだけど、近年は単一的な旨味と塩味、甘味となり誰もが美味いを共通化と共有化がなされてきた。

そうなればなるほど、山の魚はマイノリティ化し、今では完全な斜行産業と化している。

そんな中で、「長野の惣菜を…」と言ってきてくれた顧客に応えたいと思い取り組んだ試食だったが、昆虫モノ以外はほぼ感覚的に厳しかったと言えよう。

人によっては川魚よりも昆虫シリーズの方がニガテな人が多いようだけど、蜂の子や蚕の蛹、イナゴなどは私は個人的に好きであり、これもまた当時の祖母が都会では数少ない蜂の巣から取った幼虫を取り出して醤油と砂糖で炒めて出してくれた時の美味しさと祖母の説明が効いているようにも思う。

まぁ、産業を創造するという事を進める上でも非常に難しいジャンルだったという改めるまでもないほどに分かり切った結果となった。