前回は、日蓮の足跡、後半を追ってみました。

 

 

今回は日蓮の没後、京都での日蓮宗の広がりに

ついてお話しします。

 

 

 

 

日蓮の理想は、元寇などの国難に対し、

皆に法華経を勉強してもらって現実的な対処法

見出して行動してもらうことでした。

 

 

 

 

 

しかし現実には仏教界において、

「皆で祈って敵を撃退しよう」

が基本方針となってしまいました。

 

 

 

 

北条得宗家を中心とする指導層は、

国内をまとめ、相手の武力に武力で対抗する

という現実的な対策を立て、元の侵略に対処し、

撃退という形で成果を上げました。

 

 

 

 

 

ただ仏教界や貴族たちの間では、

 

「皆で祈ったから撃退できたんだ。

 神風吹いたのは僕らのおかげさ」

 

と、誤った認識が広まってしまい、

日蓮の思惑とは逆の方向に行ってしまいました。

 

 

 

 

日蓮は文永の役、弘安の役の勝利を見届けて

亡くなりますが、ほっとしながらも複雑な心中だった

のではないでしょうか。

 

 

 

 

しかし、日蓮が味わった悔しい思いは

後世に報われます。

 

 

 

 

 

・何度島流しに遭っても、政権批判

・他力本願はやめろと、ド正論を展開

・法華経を学び思考停止するな、と勉学奨励

・元寇を6年前から予言して見事的中!

・処刑場に連行されたのに、なぜか生還した!

・日蓮が雨乞いしたら、たちまち雨が降った!

 

 

 

といった、数々の日蓮・武勇伝が京に伝わり、

(ほとんど現実の話だから、却って怖い)

日蓮宗(法華宗)の信者が爆発的に増え始めます。

 

 

 

 

近衛、鷹司、九条といった有力貴族のほか、

上京・下京の有力な町衆の間に広まっていきます。

 

 

 

 

町衆は商人や職人の互助団体ですが、

応仁の乱の10年くらい前には、

町衆のほとんどが日蓮宗に帰依したようです。

 

 

 

 

なぜか。

 

 

 

 

 

上記、「神・日蓮列伝」の効果もあったでしょうが、

 

日蓮宗が現世主義の教えであるため、

リアリズムと、現世利益を求める商人たちの

日常生活と相性が良かったんでしょう。

 

 

 

 

そして、町衆の中でもケタ違いの金持ち、

足利将軍に毎月多額の税を納めていた、

柳酒屋が日蓮宗に帰依していたのも大きかった。

 

 

 

 

 

「造り酒屋の柳」は五条坊門西洞院あたりに

何人かいたと考えられますが、そのうちの一人、

五条西洞院の柳屋仲興は、日蓮宗寺院の妙蓮寺

丸抱えで建立し、恐らく妙顕寺立ち上げにも

関わっています。

 

 

 

 

 

妙蓮寺 十六羅漢の庭

 

 

 

 

 

 

天皇、貴族、武家に認められ、

富裕なパトロンにも恵まれていたため、

日蓮宗の寺院は京に激増し、栄えました。

 

しかし京では新参者のため、延暦寺や東寺、仁和寺、

南禅寺、相国寺、知恩寺などから総がかりで

攻撃され、何度も京を追い出されています。

 

 

 

 

ルイス・フロイスらキリスト教宣教師の活動開始期は、

日蓮宗が京でようやく定着して拡大期を迎えたころ。

 

そりゃ、ぶつかるでしょうよ。

 

 

日蓮宗は日蓮譲りの議論吹っかけ 宗論による

布教を得意とし、大いに信徒を増やしていきました。

 

 

「法華経+日蓮伝説」の日蓮宗と、

「聖書 +最新科学技術」のキリスト教。

 

 

先行していたのと、リッチさで日蓮宗が優位だった

のかもしれません。

 

 

 

 

 

ただし、ここで登場するのが織田信長

 

 

 

信長は上京時、妙覚寺や本能寺など

日蓮宗の寺院に宿泊するなど、日蓮宗と

一定の関係を築いていました。

 

 

またキリシタンの教義はほぼ無視してましたが、

信長は地球儀など、キリシタンの説く異国や

科学技術には興味津々でした。

 

 

 

 

信長は、京の治安を守る立場になってからは、

延暦寺や本願寺とはバチバチ戦いましたが、

日蓮宗もキリスト教も圧迫しませんでした。

 

 

ただし、両者ともに過度な肩入れもしていません。

 

 

 

 

むしろ、相手に論戦を挑む、

日蓮宗の宗論スタイルを、

和を乱すとして、苦々しく思っていたようです。

 

 

 

 

「安土宗論」てのがありまして。

 

 

 

安土の町で行われた、浄土宗と日蓮宗徒との

間の宗論で、信長の斡旋の元で行われた、

いわば公式戦のようなものです。

 

 

 

 

結果は浄土宗の勝ちとされ、

日蓮宗側は詫び証文を書かされ、うち1つには

「今後他宗派に宗論を持ちかけないこと」

という痛い文言が刻まれてしまいます。

 

 

 

 

それだけでなく、この宗論のきっかけを作った

宗徒2名(浄土宗の坊さんに議論をふっかけた)と

僧侶1名死罪となり、斬られています。

 

 

 

さすが信さま、容赦ありません。

 

 

 

 

 

さらにさらに、日蓮宗側に

慰謝料?として黄金200枚差し出させています。

 

 

 

 

宇治川にかける橋の建設費用を

賄えるほどの大金です。

 

 

 

 

 

安土宗論での信長の狙いは、

日蓮宗に宗論を他宗に吹っかけて

和を乱すのをやめさせる意図があった、

と言われています。

 

 

 

 

しかし、町衆の支持を受けて富裕な日蓮宗の

力を削ぐ意図もあったようです。

 

 

 

 

ただ、力は削がれたものの、宗論に参加した

他2名の日蓮宗の僧は命が助かっていますし、

 

安土宗論の後に破却処分を受けた法華寺も

ありませんでしたし、

 

 

 

 

 

その後も相変わらず信さまは、

妙覚寺や本能寺にお泊りに来るし。

(いい迷惑だったでしょうよ、その度に全片づけですから)

 

 

 

 

武力で歯向かってこない日蓮宗を

つぶす意図は全くなかったことが分かります。

 

 

 

 

優しかったのか厳しかったのか、微妙ですが、

信長の方針によって日蓮宗も、方向転換をせざるを

得なくなります。

 

 

 

 

この点に関しては、信長が京にある意味で、

平和をもたらしたと言えるかもしれませんね。