ルイス・フロイスに、ことさら嫌われていた日蓮宗。

 

 

 

日蓮宗に眉をひそめていたのは、

ルイス君だけではありません。

 

 

他のイエズス会宣教師も、こう書き残してます。

 

「彼らの収入は大なるが、主たるものは

 檀家の寄進にして、彼らはこれに寄りて支持せられ、

 これによりて贅沢に衣食す・・・」

 

 

 

 

まあ、こういうのを書き残すのは僕から見ると

「やっかみ」に見えてしまい、あまり信用できませんが、

 

当時の日蓮宗が檀家に支えられ、盛り上がっていたことは

伝わってきます。

 

 

 

 

さて、ルイス・フロイスは日蓮宗のどこが

そんなにイヤだったんでしょうか?

 

簡単に、日蓮宗の特徴を見ていきましょう。

 

 

 

 

 

当時の日蓮宗は「宗論」「折伏」という、

教義上の論争をきっかけに、布教を進めていく

スタイルを中心としていました。

 

 

 

 

 

僧侶だけでなく、檀家や信徒に至っても

別宗派の相手に論争を持ちかけ、

信徒を増やしていたようです。

 

 

 

 

対するイエズス会は、地球を半周して日本に

来ているわけで、当時の日本人では想像もできない

科学的な知識を有し、経験値も豊富。

 

ただ、いい話にキリスト教の教義が混ざるので、

「事実」と「神の教え」がごっちゃ混ぜになり、

いまいち信用できない民衆の立場もわかる。

 

 

 

 

 

 

ルイスフロイスにしてみれば、

自分たちは目で見てきた事実を話しているのに、

日蓮宗徒は信じないばかりか、訳の分からない

理屈を吹っかけてきて議論にならない。

 

(事実とフィクションを混ぜるから仕方ない?)

 

 

 

 

 

そもそも、

キリスト教と仏教では話がかみ合わず、

 

ディスカッションと言いながら、

勢いと人数で押し切られることもあったでしょう。

 

 

 

 

信者獲得運動の中で、

恐らく、キリシタンとの間で信者の取り合いも

あったでしょうし、

 

 

お互い、当時の京では「新興宗教」なので、

勢いがあるもの同士、ことあるごとに

ぶつかり合っていたのでしょう。

 

 

 

 

ルイスフロイスの「日本史」には、

日蓮宗が嫌いな理由は書いていませんが、

まあ容易に想像できます。

 

恐らく、上のような理由なのでしょう。

 

 

 

 

 

下は上京区にある、日蓮宗の大本山、妙顕寺。

なんとあの、後醍醐天皇による勅願寺です。

 

 

 

 

 

ところで、

 

 

なぜ、当時の日蓮宗がこのような、

ディスカッションを通じた布教をしていたのか。

 

 

 

 

 

これも私の想像ですが、日蓮宗の宗祖である

日蓮自身が、折伏などを通じ、他の宗派や

鎌倉幕府への批判を行って教えを広めていった

ことに起因するのではないかと思います。

 

 

 

 

日蓮が独自の教えを広め出す時代は

1250年代半ば以降ですが、法然の浄土宗が急速に

人々に浸透していった時代でした。

 

 

 

 

 

法然の教えの特徴は「専修念仏」

 

「南無阿弥陀仏」と唱えれば、来世には

往生できる、という庶民(悪人含む)にも

敷居が低い教えです。

 

 

 

 

当時は末法とされ、悪人がはびこり

人々の能力も低下するから、善行を重ねて

自力により現世で悟りを得るのは困難、

 

末法の救世主である、阿弥陀仏の力を頼る

「他力」の信仰がふさわしいと。

 

 

 

これにより、救われた人々も多かったでしょうが、

日蓮はこれを、仏教を誤った方向に導く考え方と見ます。

 

 

 

 

この時東日本では1257年に大地震が起き、

その後も異常気象や疫病が相次いで、、、

 

 

正嘉の飢饉と呼ばれる大災害まで起きており、

 

 

 

これ全部、法然のせいに

したわけではないですが、

 

 

 

 

現実に飢えに苦しんでいる民衆に対し、

念仏を唱えれば来世では往生できるから

安心しなさい(専修念仏の考えの一解釈)

 

なんて言いぐさは無責任だろ!

現世で救ってあげなさいよ!

(日蓮談)。

 

 

 

 

という言い分は何となく理解できます。

 

 

 

 

 

ちなみに日蓮は禅宗も批判します。

 

 

道元の曹洞宗では、日蓮と同様に現世での救いも

重視していますが、

 

 

 

 

それは、

座禅による個人規模の悟りを目指すものであり、

 

飢えに苦しむ人に、

悟れ、は無理ゲーだろ!

(日蓮談)。

 

 

 

 

ま、確かにそうかもしれません。

 

 

 

 

日蓮は自分の主張を説くため、

仏教界の、ほぼ全方位に批判を展開します。

 

 

 

 

鎌倉にて辻説法で念仏批判をして

石を投げられたり、

 

しょっちゅう奉行所に訴えられ、

牢にぶち込まれます。

 

 

 

 

 

それだけでなく、政権批判にも乗り出します。

 

相手は、鎌倉幕府。

北条時頼。

 

 

 

 

これは日蓮が、

 

国家滅亡の危機にある今は、

我々の住んでいる国土の安穏と、

人々の平和な生活を優先して考えるべき。

 

と考えた故の決断で、

 

国家を立て直し、人々が幸福を実感できる

理想社会を実現できれば、人々は来世でなく

現世で苦悩から解放される。

 

 

と悟ったからです。

 

 

 

 

考え方はまともに思えますが、

北条得宗家に対し日蓮が何をしたかというと、

 

 

 

 

 

おもむろに、

 

国家を率いる得宗家が、

念仏を唱えるなど、やめろ

 

とイチャモンをつけます。

 

そして「立正安国論」を突き付け、

これを読んで勉強せい、と。

 

 

 

 

 

訳の分からない本を渡された北条時頼、

最初は無視します。

 

 

 

 

 

ですが、北条家にも浄土宗信者が多数おり、

浄土宗徒とのもめ事が日に日に多くなったため、

 

 

 

 

日蓮、伊豆に島流しされます。

 

 

 

 

 

島流しで済んでよかったですよ、日蓮さん。

と思ったのは私だけでしょうか?

 

相手が信長なら、死んでました。

 

 

 

 

 

しかし、これで懲りないのが日蓮。

 

政権批判と他宗批判は更にエスカレートします。

 

 

 

 

このあたりの、論争で現状を変えていこうとする

日蓮のスタイルが、室町後期の日蓮宗の宗論に

受け継がれているような気がします。

 

 

 

 

日蓮の、気合の入った活動は興味深いので、

次回にも続きます。