直義が一度失脚してからの足利幕府の政治は、

私ら後世の人間から見てもあきれるくらい

政治の主導権が入れ替わり、訳が分かりません。

 

 

 

 

 

 

足利直義はどうも生真面目な性格で、

軍事には強いが女性関係等にだらしない高師直とは

水と油のような関係だったようで、

 

 

義詮の補佐役とはいえ、直義が政治に関わると

どうしても師直派とぶつかってしまう。

 

 

 

 

 

 

不穏なムードが漂う中、1350年、

直義の養子直冬(実は尊氏の子)が中国地方で挙兵、

 

尊氏と師直が制圧に向かったタイミングで

なんと直義が南朝に降伏

直義は南朝方として尊氏+高師直と戦い、勝利します。

 

 

 

 

 

尊氏と師直、師泰は降伏し、

直義派は師直師泰を闇討ちで殺害しますが、

 

 

 

 

なぜか直義、尊氏降伏のアドバンテージをここで手放し、

尊氏の息子義詮の補佐役として政務に復帰するという

謎の選択をします。

 

 

 

 

 

征夷大将軍というスペックに対するリスペクトなのか、

尊氏なしでは足利幕府が崩壊すると思っていたのか、、、

 

 

 

このあたりの複雑さは、

さすがの室町時代初期

って印象ですが、事実なんだから受け入れるほかなし。

 

 

 

 

とにかく、1351年2月末に師直師泰らを殺害した後、

直義は政務に復帰しますが、

 

兄弟で殺し合いまでした後のこと、

そう簡単に丸く収まる訳はなく、

 

 

 

尊氏派と直義派の武士らが小競り合いを繰り返した結果、

1351年7月には、直義が政治を放棄しています。

 

半年もたず。。。

そりゃそうですよね

 

 

 

 

 

この後、尊氏は佐々木道誉を討つため(実は嘘)近江へ、

義詮は赤松討伐と称して兵庫へ出陣し、直義から見れば

挟み撃ちの情勢になったため、直義越前へ逃亡。。。

 

 

 

 

この後、今度は尊氏が南朝に降伏する形をとったこともあり、

形勢不利となった直義は近江、駿河、相模で尊氏派に連敗して

武装解除された後に急死します。

 

尊氏らによる毒殺、との説があります。

 

 

 

 

とにもかくにも、直義が亡くなった1352年2月に

観応の擾乱が集結しました。

 

 

 

 

勝った尊氏も、1358年4月、波乱万丈の人生を終えます。

 

 

 

 

 

 

 

さて、この戦乱期、尊氏らが在京している期間は短かったはずですが

足利幕府初期の政治の中心を振り返ってみましょう。

 

 

 

まずこの時期、北朝の内裏(御所)は土御門東洞院殿

一貫しています。

 

1336年に二条富小路殿が焼けてからは、ここが皇居です。

 

 

 

 

 

そして尊氏の将軍御所は、前回の記事でも扱ったように

土御門東洞院殿の南隣の屋敷に置かれます。

 

 

 

 

しかし、この屋敷、何度か焼けています。

 

 

 

直義とのバトル真っ最中の1349年3月にまず焼け落ちます。

戦闘で焼けたか、放火でしょうねえ。

 

その間尊氏は、高師直の屋敷(一条今出川)に身を寄せます。

 

 

 

 


すぐ再建された(1349年8月)将軍御所ですが、

尊氏が観応の擾乱で全国転戦している間の1351年、

再び火事に遭います。

 

 

 

 

詳しい記録が見当たらなかったのですが、

恐らくこの将軍御所もすぐ、再建されたはずです。

 

 

 

 

 

尊氏が亡くなった場所は二条万里小路の、

後醍醐帝時代に邸宅としていた屋敷ですが、

恐らく体調を崩してからは自宅療養していたのでしょう。

 

 

 

 

 

2代将軍の義詮は、直義が政務を執り行っていた

三条坊門殿にて政治を行っていましたが、

 

尊氏亡き後、1365年に、直義の三条坊門殿の隣地に

(義詮期の)三条坊門殿を新造し、ここに住みます。

 

 

 

 

元の敷地には、直義の魂を鎮めるために

八幡宮を建てました(現在の御所八幡宮)。

 

 

 

 

 

義詮は闘犬に熱中していたエピソードが残るなど、

バカ殿のイメージがありますが、

 

将軍の側近として佐々木道誉を重用するなど、

まともな側近に恵まれて、何とか幕府を維持します。

 

 

 

 

 

ところで、この新しい三条坊門殿には、義詮の息子、

義満も住んでいました。

 

 

 

義満は1378年に、室町に屋敷を移します。

 

これが「花の御所」ですが、室町の御所は「上御所」、

三条坊門殿は「下御所」とも呼ばれていました。

 

 

 

 

当時、二条通りから北を上京、南を下京と呼んでいたので、

将軍御所も「上御所」、「下御所」となったのでしょう。

 

分かりやすい。

 

 

 

そして義満は1401年、土御門東洞院殿が焼失した際、

平安宮内裏を模した本格的な内裏として再建することとし、

1402年に完成します(応永度土御門内裏)。

 

 

 

 

義満は天皇の権威を脅かした大罪人とも呼ばれますが、

まともなこともやっているので、ディスるだけでは気の毒。

 

 

 

 

 

さてさて、ようやく足利時代初期の混乱期から、

室町御所に義満が腰を落ち着かせる時期まで

振り返ることができました。

 

 

 

 

 

この後、応仁の乱もあったりして、天皇や将軍の御所は

転々としますが、

 

キリがないので、一旦このテーマを締めたいと思います。