建武~南北朝期の平安京の話。

続きです。

 

 

 

 

足利尊氏と後醍醐天皇、建武の新政時は

仲良くやっていました。

 

 

 

 

 

尊氏は天皇に鎌倉幕府滅亡の勲功第一と評され、

恩賞もまあまあ大きく、、、

 

ただ建武の新政では、

尊氏自身は政権の要職につきませんでした。

 

 

 

 

尊氏の屋敷が、天皇の御所(二条富小路殿)のすぐ近く、

二条通りをはさんで斜向かいだったのも、

この時期の後醍醐帝と尊氏の蜜月を表すものでしょう。

 

 

ただ建武新政権は開始時の、独断的で不公平な

武士への恩賞でつまづき、

 

その後は公家や武士が絡んだ各地の複雑な土地訴訟への対応が

機能せず、混乱を招きます。

 

 

 

 

 

滅んだ鎌倉幕府が当初、武士らの指示を集めた理由は、

争いや訴訟への公平な審判が機能したことにあったのに、

それができないとなれば収拾がつきません。

 

 

 

 

 

 

特に、各地の事情や慣例を考慮せず、土地をスペックで評価して

恩賞として振舞ってしまったものだから、同一の地に複数の領主が

現れたりして、武士や民衆らの不満が鬱積します。

 

 

 

 

鎌倉幕府滅亡からの、

こうなるまでのスピードが、また早いのなんの。

 

 

 

 

この時期の主だった動きを年表で追ってみると、、、

(ユリウス暦表記)

 

 

1332年4月    後醍醐帝、隠岐島へ配流

1333年4月    後醍醐帝、隠岐島を脱出

         6月19日 足利高氏 六波羅探題を滅ぼす

         7月  4日 新田義貞 鎌倉幕府を滅ぼす

         7月17日 後醍醐帝、建武の新政スタート

         9月14日 後醍醐帝、叙位除目(倒幕の論功行賞)

       10月19日 雑訴決断所(訴訟機関)運用開始

1334年3月 5日   建武に改元

         3月        雑訴決断所(訴訟機関)の条規制定

         5月 2日  新銭、および紙幣の発行を定める

         9月       『二条河原の落書』による世相風刺

       11月19日   護良親王が捕縛され失脚

       11月          新税「二十分の一税」が施行

1335年7月 5日  造大内裏行事所始

         7月12日 西園寺公宗の謀反発覚し、捕縛される

         8月  9日 中先代の乱勃発

         9月  7日 中先代の乱終結。

           尊氏、鎌倉で独自に恩賞を配り始める

 

 

 

後醍醐帝の新政開始から、1年あまりでもう

二条河原に落書描かれてディスられてます。

 

 

 

 

落書きは庶民によるものではなく、相当な教養人によるものと

されていますが、元弘の乱の論功行賞の不満だけでなく、

雑訴決断所(訴訟機関)の採決への不満もあったのでしょう。

 

 

 

 

気になるのは、二条河原の落書の少し前に

新銭、および紙幣の発行を定める、とあること。

 

 

 

 

乱が終息して1年もたたずに新しい銭を発行、

さらに紙幣まで発行なんて、いくら何でも急ぎ過ぎでは?

 

武士たちも、元弘の乱でお金や物資を使い過ぎ、

領地の民衆にもツケが回って皆苦しんでいました。

 

 

 

そこへ紙幣発行なんて、人類が紙幣を使いこなすのは

近世になってからなのに、混乱に拍車がかかったはず。

 

 

 

 

この時の新銭・乾坤通宝と楮幣(紙幣)はまだ発見されて

いません。

十分に流通する前に、建武の新政が終わってしまった。

 

 

 

 

 

そして新銭発行の半年後には、

新税「二十分の一税」が施行されます。

 

 

 

 

全国の荘園・所領から、年貢や進物などの1/20を

税金として徴収するというもの。

 

当然、全国から不満の声が高まります。

 

 

 

 

 

 

何のために、この新税を設けたのかというと、

 

なんと、承久の乱以降、火災で失われていた

大内裏を再建するためだというのです。

 

 

 

 

 

いや、この物入りの時期に、

そりゃ無理でしょって。。。

 

 

 

 

 

平安時代は、飛鳥時代からの徴税システムが機能していて

内裏建設のような大掛かりな工事の資金が確保できた。

 

平安末期は荘園が増えて皇室の税収は減っていたけど、

後白河天皇や信西が藤原氏の荘園を横取りして、

再建資金を確保できた。

 

 

このあたりの経緯はこの記事を。

 

 

 

なのに後醍醐天皇、新体制が安定する前に

安易に単なる増税で資金を確保しようとした。

 

 

 

 

 

どう考えても、無理があります。

 

 

 

 

 

建武の新政は、武士への恩賞が薄くて

うまくいかなかったと言われますが、

 

 

 

 

急激に貨幣システムを変更したり、

気まぐれに紙幣を発行しようとしたり、

 

とどめに増税して、武士も民衆も苦しめたり

 

 

 

 

 

後醍醐天皇とその取り巻き以外にとっては、

不満だらけの政策を立て続けに打ち出したんですね。

 

 

 

 

世間の空気、読めなさすぎです。

 

 

 

 

 

建武の新政開始から2年あまりで

足利尊氏は独自に恩賞を出し始めています。

 

 

 

 

尊氏にしてみれば、

「もう限界」

ってところだったのでしょうね。

 

 

 

 

 

紙幣発行増税大内裏再建。

 

 

 

 

 

後醍醐天皇、イタ過ぎる失策を連打してしまいました。