えー、だいぶ後白河法皇ネタを引っ張りましたが、

法皇様を散々、いじり倒して気が済みましたので、

 

室町時代の平安京へと

テーマを進めていきたいと思います。

 

 

 

 

 

まず、鎌倉時代の京都で鎌倉幕府の重要拠点だった

六波羅探題は、1333年5月の足利高氏による攻撃で

滅亡します。

 

高氏による裏切り行為だったとはいえ、あっけない最期。

 

 

 

六波羅探題は元・平清盛邸があった場所に作られた

出先機関で、当然現在は跡形なく、六波羅蜜寺のあたりと

伝えられています。

 

 

六波羅探題陥落のすぐ後に、新田義貞が鎌倉を

攻め落とし、鎌倉幕府も滅亡します。

 

 

 

 

鎌倉幕府滅亡時の天皇は、光厳天皇。

 

幕府滅亡の2年前、後醍醐天皇による元弘の変が起き、

後醍醐帝が京都から逃亡した流れで、光厳天皇は

土御門東洞院殿にて践祚しています。

 

 

が、光厳天皇が実際に里内裏としていたのは、

二条富小路殿でした。

 

 

 

土御門東洞院殿、二条富小路殿ともに

持明院統の里内裏として使われることが多く、

光厳天皇も持明院統の方なのですが、

 

 

鎌倉幕府が滅び、後醍醐天皇が復活すると、

幕府滅亡の翌月の1333年6月、

後醍醐天皇、二条富小路殿に入ります。

 

 

 

後醍醐天皇は持明院統と両統迭立の相手、大覚寺統の方です。

 

後醍醐天皇の前の、大覚寺統の天皇である後二条天皇や、

お父さんである後宇多天皇は、西隣の二条高倉殿を里内裏と

していたようですが、、、

 

 

 

 

戦いの後だし、使える里内裏に入ったのでしょう。

 

 

 

 

 

しかし、建武の親政は2年でおしまい。

後醍醐天皇と尊氏は袂を分かちます。

 

 

 

尊氏は中先代の乱だの建武の乱だのと日本全国で

戦いの日々を送りますが、

 

 

これらの戦いを乗り切り、

先代の光厳天皇に声をかけて

自分らの正当性を確保したうえで京都に入ります。

 

 

が形勢不利となったので九州に落ち、体勢を立て直し、

湊川の戦いで新田義貞・楠木正成軍を破り、、、

 

 

京都を制圧したのは1336年の6月でした。

後醍醐天皇は比叡山にて抵抗を続けてます。

 

 

 

 

 

この頃には、弟の直義が三条坊門殿に住んでいた記録があり、

尊氏も隣の邸宅に住んでいた可能性があります。

 

 

 

 

 

後醍醐天皇が入っていた御所はすぐ近所の二条富小路。

 

 

 

もしかしたら建武の親政時も後醍醐帝に請われて

近所で天皇親政を支えていたのかもしれませんが、

 

 

 

 

室町時代の初期は、この三条坊門付近が

政治の中心になっていました。

 

 

 

 

 

尊氏があちこちで戦ってばかりで、

室町初期の話は長くなり、分かりにくいですね。

 

 

 

 

 

次回、もう少し経緯を追ってみます。